金磯弁天に詣でる
1185年の2月18日の早朝、ここに屋島の平家軍に奇襲をかけるため、源義経軍が上陸する。
嵐の中を、摂津の渡辺津あたりを子の刻というから深夜0時から2時という真夜中に出発。
5隻の兵艘と15隻の輸送船が、当時は3日かかるという航路を嵐の強風を追い風に数時間でやってきてしまう。
現在は室岩といわれている岩は、その形から、当時は兜岩といわれていた。義経軍はここから上陸地点である勢合あたりを眺め、進軍の進路を見定めたのだろう。
弁天山は当時は島で、当時はまだ干拓されていなかった金磯新田は大きな干潟だったことだろう。
不思議な色の岩だ。伝説では、桓武天皇の頃、空海こと弘法大師が、この岩の上に現れた弁財天と一晩、法話したという。弁財天は、明け方に白龍になって海へ消えていった。法話といえば、なんだか難しいが、一晩、語りあかしたといえばロマンチックかもしれない。弘法大師のお母さんが、讃岐の善通寺から訪ねてきて、出家したという18番札所の恩山寺。その鬼門を守るのが、この弁財天になるらしい。
不思議な色の岩の正体は、秩父帯という構造体の岩盤、中生代ジュラ紀、恐竜の時代の前半ころ、およそ1億年~2億年前に海から隆起した岩石で、西日本の背骨をつくっている。房総半島から秩父を通って諏訪湖で折れて、渥美半島から伊勢を通り、紀伊半島、四国を横断し九州の阿蘇山の南を通っている。
四国で2番目、西日本でも2番目の高さ1955mの剣山も秩父帯なので、金磯弁天は剣山への入り口でもある。この海岸から、山の尾根をずっと西へ進んでいくと剣山に至る。南北朝時代は九州勢力と奈良の吉野の南朝をつなぐ道が、小松島→佐那河内→神山→木屋平などの山の集落をつないで栄えたという。

弁財天を祀る神社の境内には、タブの木とアコウノ木がある。タブの木は照葉樹林文化を象徴する木であり、根がタコの足のようになっているアコウノ木は熱帯の木であり、ここはアコウノ木が自然に自生している北限になっている。
アコウノ木の下の小さな祠は祐七というタヌキの祠。
弁財天を祀る神社の唐破風には、亀に乗った浦島太郎と竜宮城の浮き彫りがある。浦島太郎は手に玉手箱をもっているから、竜宮城からの帰り道のようだ。



境内の石の垣根のとなりには、地元の人の憩いの場所になっているのだろうか、ベンチとたき火のできる炉がある。
弁天山は蓬莱山ともよばれていたそうだ。神社の北のトンネルは自然の海蝕痕のようだが、神社の南の洞穴は、人工的に掘ったもののように思われる。幕末、この小山には、異国の船を打ち払うための砲台が設置されていたそうで、火薬庫や武器庫も建っていたそうである。

石像は中国風のようであり、南方系のようであり、異国の香りがする。山へ登る古い石の階段があり、頂上には、やはり南方の、まるでモアイ像を想像させるような石造を祀った祠がある。正面で腕を組んだその像は、ひょっとすると旗をもっていたのではないかと思われる。
昔、砲台があったころに旗を立てていたのではないだろうか?
幕末につくられた砲台は、私財を投じて金磯新田を開拓した多田家が、やはり私財を投じてつくり、蜂須賀藩に寄贈したものだという。

金磯新田は、地域の農民が高潮などによる塩害で苦しんでいるのを見かねて、回船業などを営んでいた多田家が、破産する覚悟で、私財を投じて干拓したものだという。7代目の多田助衛門のときに干拓事業がはじまり、代々その事業は受け継がれて9代目のときに、ようやく150ヘクタールの新田が完成したという。
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