« 2010年1月 | トップページ | 2010年3月 »

2010年2月

おふとまひめを祭るえのみや神社

12_213927年に完成した『延喜式』の「神名帳」に掲載されている神社は2,861社(3,132座)ある。その中には『古事記』に出てくる神だが、阿波国にだけに祭っている神がいくつかある。そのひとつが意富門麻比売神社(おふとまひめじんじゃ)。おふとまひめはイザナギ・イザナミが生まれる直前の、油のようにくらげのように漂っているような状態から、ようやく大地が固まった姿を表現してる部分というべき神世七代の所に登場する。

工藤隆氏は『古事記の起源』の中で、神話には文章になるまでの長い年月を数世代にわたって、口伝で歌い継がれた時代があると考えている。そして工藤氏は神田秀夫氏の『古事記の構造』の一説を引用し、古事記の冒頭部分には「葦かびの序歌」のようなものがあったのではないかと述べている。

14浮いた油の紋様か
ふわふわする大きな水母の傘のように
いちけない春の入り江に
突き出た芦の角
もえ立ち、群がり立った青い角
初々しい泥よ    
(ウヒジニ)
砂の土よ       
(スヒジニ)
角ぐむものよ    
(ツノグイ)
芽ぐむいのちよ   
(イクグイ)
父であり       
(オオトノジ)
母である土に    
(オオトノベ)
よろこびの面輪が 
(オモダル)
驚きの声を放つ  
(アヤカシコネ)
さあ、立てよ、柱  
(イザナギ)
八尋の殿に     
(イザナミ)

17日本誕生の神話の風景は川の河口に広がる葦原のような場所の風景である。

現在、意富門麻比売を祭る神社は、徳島市上八万町中筋にある宅宮神社である。

宅宮神社は清和天皇の時代、貞観16年(874年)に従五位ににおせられている。名方郡12社の第一位とされ、祭神は「おふとまべのみこと」は家の神とされている。古代名方郡は海の民、アマベ氏とかアズミ氏とかイズモ氏とよばれる民が治める土地だったという。かつてこの神社は園瀬川を見下ろす丘の上にあったという。丘の上からは海から川つたいに入ってくる交易の船が見えていたのだろうか?日本神話の風景となったであろう葦原の緑がもえる風景が広がっていたのだろう。

戦国時代、四国平定を目指す長宗我部の兵火に遭い焼けてしまう。昔の社殿は2町(約200メートル)ほど南西の丘の上にあったという。再建時に平坦部に移されたらしい。荘厳な大きな森に囲まれた社殿だったという。今も境内には大きな杉の切り株が保管されている。落雷によって弱ったので、現社殿の建築のときに切られて、社殿を立てる材木になったという。

十字カーソルのところがおふとまひめを祭る宅宮神社。その上(北)に流れるのが園瀬川。その上(北)の山は眉山。この眉山の周辺が名方郡。眉山の左(西)の川は鮎喰川。その川の左(西)が阿波の国の国府があったところで、そのまた左(西)の山、気延山は山全体が古墳群になっている。阿波の国の古墳時代の中心地。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ミミズのチカラ⑭その応用:水稲編その参

3

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ミミズのチカラ⑬その応用:水稲編その弐

2

秋におこなった試験栽培の結果。季節が逆なので、徒長ぎみになってしまった。夜温がさがらないためか、または日がだんだん短くなっていくためか、理由はいろいろ考えられるが、病気も出ずにきれいなYの字にはなる。しかし3枚目の葉が出ない。フィッシュソリブルを使って刺激してやると3枚目の葉が出た。ミミズふん土にはアミノ酸態のチッソが入っている。春からの季節に合った育苗の中では、ミミズふん土のアミノ酸態チッソだけで4葉または4.5葉まで育てることができるのではないかと思われる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ミミズのチカラ⑫その応用:水稲編その壱

1

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ミミズのチカラ⑪その応用:トマト編その参

5

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ミミズのチカラ⑩その応用:トマト編その弐

6

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ミミズのチカラ⑨その応用:トマト編その壱

4

試験栽培をしていただいたのは、徳島有機農業推進協議会のメンバーのおひとり、楠さんの株式会社アグリベストの市場町大股農場。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ミミズのチカラ⑧その特徴:すぐれた化学性

8

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ミミズのチカラ⑦その特徴:すぐれた生物性

9

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ミミズのチカラ⑥その特徴:すぐれた物理性

10

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ミミズのチカラ⑤

12

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ミミズのチカラ④

13

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ミミズのチカラ③

11

菌床シイタケの菌床の原料は秋に紅葉する広葉樹の木材チップとオガクズ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ミミズのチカラ②

14

日本一の規模を誇る株式会社豊徳のミミズ養殖場は四国の東部、徳島県の小松島市豊浦町にあります。この地に日本一のミミズ養殖場があるのには、それなりの理由があると思うのです。黒潮の影響を受けて温暖な気候、ミミズにそそがれるミミズ養殖職人のやさしいまなざしは南国人特有のおおらかさに起因するもの、そしてミミズのエサとして供給されているのは菌床シイタケの廃菌床。菌床シイタケは地場産業として、生産量は日本一の規模に育っています。ゆえに、日本一のミミズ養殖場は、この地域の風土が育てたのだと思うのです。

航空写真で見るとこんな感じ。写真の上の方、池の上に横一列に並んでいる、たくさんの白い長方形がミミズを養殖しているピットです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ミミズのチカラ①

15

ミミズが養った土は、農業にとって最良の土といわれています。ミミズとミミズと共生する多様な微生物が養った土は、まさに生きた土、生命そのものです。

徳島有機農業推進協議会は徳島県小松島市にある日本一の伝統と技術を誇るミミズ養殖場である株式会社豊徳さんと協力して、ミミズのつくった土(ミミズふん土)の農業への有効性を様々な角度から検証し、有機農業を支える土壌改良剤として、さらに使いやすいものにする研究開発をおこなってきました。

その現時点での研究成果をまとめたものを、2月20日~21日に神戸学院大学で開催されました「地域がささえる食と農・神戸大会」のポスター展に出展しました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

三好長慶を見直す

阿波再興フォーラム第1回勉強会

1月31日(日)鳴門市賀川豊彦記念館

話題提供:永井英彰氏

三好長慶を見直す

地図の十字マークのところが見性寺、その南(下)のところが永井さんが社長を務めておられた長尾鉄工所。この敷地の下から三好城館跡が見つかった。

従来は周囲を堀に囲まれた見性寺のあるところが三好城館だと思われていた。発掘調査で見性寺の南に城館跡が見つかり、見性寺は水軍の集合場所だったことがわかった。三好家は京都の細川氏に仕え、吉野川の水が育んだ豊かな農地を経済基盤として細川氏を支えた。

板野郡井隅荘は承久の乱(1221)の時(鎌倉時代初期)阿波国守護になった小笠原氏は、この地に守護所を設け、阿波一国の軍事・警察の任に当った。

南北朝時代の延元2年/建武4年(1337年)、細川詮春が秋月城からこの地に守護所を移し勝瑞城と称した。以後、阿波細川氏の居城となり、勝瑞城は、京都の管領屋形に対して阿波屋形または下屋形とも呼ばれた。応仁の乱では東軍の後方拠点となり、また両細川の乱では細川澄元党、次いでその子晴元党の拠点となった。

天文22年(1553年)、細川持隆が、家臣三好義賢に謀殺され、実権が三好氏に移った後も、引き続き同氏が居城として使用した。三好義賢は三好長慶の弟。弟に国を守らせ、兄長慶は京へ何度も出兵し勢力を拡大していく。

中世の城は山城が圧倒的に多い中、勝瑞城は起伏のない平城で、海に開けていた。畿内へ出兵するには船がいる。勝瑞城は水軍の基地であった。

勝瑞は四国を代表する文化都市として発展していたが、天正10年(1582年)、長宗我部元親の侵攻を受け、十河存保は讃岐国に敗走。城は廃城となった。廃城に伴って勝瑞城を守護してきた板西城、姫田城、西条城等の城も運命を共にした。

三好氏の話は、とかく色恋沙汰が目立つ。小少将という方は、傾城の美人だったようである。小少将は勝瑞城の城主細川持隆の妾で、三好長慶の弟である三好義賢は小少将の生んだ細川真之を擁して謀反を起こし、細川持隆を自害させ、ついに勝瑞城主となった。

色恋沙汰が表に出てくるのは、明治以降に天皇を中心とする国家体制の中で、天皇家を重んじる思想の中で、三好氏の評価が悪くなっていったようである。

三好長慶は京の都を征服したが、古い幕藩体制を改革することはできず、古い体制の中で自分の生きる道を模索した。これは三好長慶に続くて、京を征服した織田信長が古い体制を壊して、新しい時代をつくったことに対して、三好はそれほどではないという評価になることが多いが、実は信長は三好をまねしたのであって、けして独創的であったわけではないという評価もある。

信長はなかなか京都に登れなかった。それは自分の本拠地をなかなか離れることができなかったからである。留守に家臣が謀反を起こす可能性が高く。離れることができなかった。その点、三好は自由であった。①本拠地を変えることが自在で、かなりの統制能力をもっていたと思われる。②商業都市堺を支配していて、農民兵士だけでなかったので、戦の時期が稲作作業に左右されなかった。③家柄にとらわれない自由な人材の登用し、能力のある人を集めた。

三好の家来で有名なのが松永秀久。彼は奈良の大仏で有名な東大寺を焼き打ちにしたことで有名であるが、彼は築城技術に長けていた。

年号を変えさている。「永禄」は三好の力でなった年号である。これをまねて、信長も「天正」に変えさている。当時、年号を変えることは、天下に武家の新しいリーダーが誕生したことをしらしめるセレモニーだった。

『信長公記巻六』によると、天下統一を目論んでいた信長は、元亀3(1572)年9月に足利義昭に提出した17か条の意見書で、「元亀の年号、不吉に侯間、改元然るべしの由、天下の沙汰につきて、申し上げ侯」と改元するよう申し出ている。

三好はキリスト教を擁護したり、茶の湯文化を支援したりしている。特に千利休との関係は深い。利休のはじめの妻は三好長慶の腹違いの妹のお稲(宝心妙樹)。後妻となるオリキの元主人は宮王三郎という人で鼓の名手、猿楽や能の名手という。この人は三好義賢(弟)にこわれて、阿波に招かれ、勝瑞の三好城館で亡くなっている。オリキには、さまざまな再婚の話があったが、お稲を病死で亡くしていた千利休と再婚する。

大徳寺の聚光院は千利休が檀越になり茶道三千家の菩提樹になっている。 このお寺はもともとは1566年に三好義嗣が、養父である三好長慶を弔うために建立したもので、その名は三好長慶の法名に由来する。

茶の湯の三千家といえば、表千家・裏千家・武者小路千家であるが、徳島には阿波千家という茶の湯が受け継がれている。千利休の生家である納屋衆(貸倉庫業)の屋号魚屋(トトヤ)の末裔といわれている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2010年1月 | トップページ | 2010年3月 »