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2009年12月

水田の生物多様性を活かした食糧確保のアジアモデル

ラムサールネットワーク日本の共同代表のおひとり、日本の雁を保護する会会長の呉地正行氏に「命を育む田んぼ」と題して講演をしていただく。

2009年12月12日・徳島市文化センターにて

■はじめに

2008年11月、韓国で開催されたラムサール条約のCOP10(第10回目の締約国会議)では、韓国と日本のNGOが働きけ、日本の農林水産省の支援のもと、アジア地域の水田は生物多様性を活かした持続可能性の高い食糧生産の仕組みであることということが、「水田決議」にまとめられ、アピールされた。

ラムサール条約はラムサール湿地とよばれる特定の水域だけの範囲であったが、2010年10月、日本が議長国を務め、名古屋で開催される生物多様性条約のCOP10(第10回目の締約国会議)の中では、アメリカ、北朝鮮を除く、地球上のほぼすべての国と世界中のNGOが集まり、今後の地球の運営の仕方が決められることになる。

このサミットの中で、ラムサール条約の「水田決議」を道具として、人口がどんどん増大し、人間活動による環境破壊の激しいアジア地域における。これ以上、地球環境を劣化させずに、人間生活の豊かさを守るための自然の恵みの持続可能な利用方法として、水田の生物多様性を高め、食糧生産と環境保全を両立するというモデルが提案される。

今後、アジア地域がEUのようにひとつの共同体になっていくとしたら、さまざまな考えの国がまとまる、その底辺を支えるものは、共通の気候であるアジアモンスーン気候、その自然環境を活かした食糧生産の仕組みである水田稲作になるだろう。ECからEUへヨーロッパが生まれ変わるための話し合いもそのほとんどが農業と、その農業が共生する自然環境をどうするかという話し合いであった。

地球をこれからも持続可能な生存空間とするために、アジア地域の人口爆発に対応する食糧生産の方法と自然利用の方法を考えなければならない。そのひとつの答えが水田の生物多様性を活かした食糧生産の仕組みである。水田で米だけではなく、魚も取れるし、水生植物もとれる。現在もカンボジアやラオスなどでは水田を高度に利用する複合生産の仕組みが出来ている。これを食糧不足を防ぎ、自然を壊すことなく、人口を維持する理想の農業生産の仕組みとして評価し、普及していかなければならないだろう。

以下、講演のメモ録

3g4g_2■農法としての「ふゆみずたんぼ」

6g13gガンはどのように田んぼを利用しているのか?エサを獲るのは乾田で、湛水田は休息とねぐらとして利用している。

1g5g「ふゆみずたんぼ」にすることで、クモ、カエル、イトミミズが増えて、生態系が豊かになり、冬だけでなく夏もサギなどがエサ場として利用できるようになる。

アマガエルはイネミズゾウムシ、イネトツムシ、ツマグロヨコバイなどの害虫をハエ、ハチ、ガガンボよりもたくさん食べている。つまり益虫。またクモが増えるとウンカの害から守られる。

蕪栗沼の調査から、ふゆみずたんぼを行ったところと、夏にサギが群れているところには共通していることがわかった。3.7倍~4.4倍サギの密度が高まっている。

8g7g2g11gサギが何を食べているのかを調べたところ、ダイサギ、チュウサギ、アオサギもドジョウを食べていることが多かった。

14gドジョウはイトミミズを捕食してる。ふゆみずたんぼでイトミミズが増えて、結果、ドジョウも増えたと考えられる。ふゆみずたんぼを行うことで生きものが増えた。イトミミズはふゆみすたんぼを行うことで5倍になっていた。田んぼと用水路をつなぐ魚道をつけると、利用している魚は圧倒的にドジョウが多かった。

「ふゆみずたんぼ」の効果については、3つの側面がある。①水辺生物の生息環境の回復。②新しい農法。③農業と環境の共生。

①水辺生物の生息環境の回復。
微生物から水鳥まで生物多様性の向上
ふゆみずたんぼのネットワークでガン類などの渡り経路の復元。(ガン類は、今は東北までしか南下しないが、かつては九州まで南下していた。)

16g17g②新しい農法。
抑草効果・益虫が増えて害虫抑制効果・水鳥やイトミミズ、微生物の糞による肥料効果・稲ワラの分解・生物多様性総合管理のモデル(IBM)

③農業と環境の共生。
農業の持続可能性を高める。農業生産による環境負荷の低減。

農業生産とガンなど水鳥との対立する関係から共生への道づくり。

18g■田んぼは自然と暮らしを結ぶ

マイナスを減らし、プラスを生み出す。食害補償条例1999年12月~・ふゆみずたんぼ1998年~、付加価値のあるお米を生み出す。ガンの生息地も守られる。より積極的にガン

を利用した農業があるのではないか?

2005年11月、ウガンダで開催された第9回ラムサール条約締約国会議で蕪栗沼と周辺水田が新たなラムサール条約湿地となる。

19gラムサール条約湿地は湿原、湖沼、河川、干潟だけではなく、マングルーブ林、サンゴ礁、藻場、そして地下水系やカルスト、人工湿地も含まれる。

ラムサール条約湿地になると①保全・再生。②賢明な利用。③交流と学習の3つのテーマに取り組むことになる。

蕪栗沼と周辺水田の場合は、地元関係者の合意に基づき、アジアを代表する水田を含む初めてのラムサール条約湿地。ラムサールは環境を活かした水田農業にとって役立つ道

20g具となるという新しい考え方。ラムサール条約湿地としての水田の機能をさらに活かした地域づくりの模索→水田決議へ発展。

ラムサール条約湿地内の環境配慮水田区画計画と生物多様性を活かした有機農法(ふゆみずたんぼ農法)の実践に配慮した圃場整備工法の検討。40ヘクタール。

ふゆみすたんぼ米=ラムサールブランド米

2004年以降、20ヘクタールを集団作付け、生きものの力を活かしたお米作り。

21g22g生きものの生息環境の創造と、生きものと共存をめざす農業者への経済的な恩恵の創出。田尻町(現大崎市)が町独自の環境直接支払い制度で取り組みの立ち上げを支援した。

成果として、多くの水鳥でにぎわう水田が、農業に恩恵をもたらすことを実証。

今後の課題として、面的な広がりの推進。地域内でも、全国レベルでもネットワーク化し、水鳥の渡り経路の復元をめざしたい。

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■田んぼは湿地の賢明な利用の形

水田決議の画期的なところ
①水田という特定の農地に注目した初めての決議
②水田を「農業湿地」と捉え、その湿地機能を活かした管理を行えば農業生物多様性が高まり、持続可能な水田農業が実現できることを示唆。
③アジアを代表する湿地である水田の生物多様性を世界に発信。
④農林水産省が、初めて会議に参加し、決議の審議に関わった。
⑤水田決議が、生物多様性条約会議(2010年、名古屋)とラムサール条約をつなぐ架け橋に。
⑥日本と韓国のNGOの提案、支援を日韓両政府が受け止め、水田決議X.31にまとめ、採択さえた。
⑦自然湿地に関係が注がれていたラムサールの中で、人間との関わりを持ち、賢明な利用が強く求めらえている人工湿地に注目した初めての事例。
⑧アジア諸国などで食糧増産のために行われようとしている、伝統的な持続可能な農法から、歯止めをかける道具として、時節を得ている。

国内のラムサール条約湿地で周辺に水田があるのは、37ヵ所中14ヵ所。

ラムサール条約湿地内に稲が生息している湿地は世界に75ヵ所ある。条約湿地内ではなく、その周辺に稲が生息している場所を含めると89ヶ所になる。

■水田を核とした生物多様性アジアモデル

31g水田を核とした生物多様性アジアモデルを生物多様性条約COP10名古屋で提案する。

水田生態系の政策的認識。水田は生物多様性の宝庫である。エコアジア2008年の議長総括で水田生態系に言及する。

①総合的アプローチの重要性・ラムサール水田決議に期待。

②水田はアジアモデルの重要な構成要素。

③SATOYAMAイニシアティブの一部。

30gラムサール条約と生物多様性条約の共通点・違点。

共通点:豊かな自然(生態系)をめざす。

相違点:ラムサールは特定湿地を対象に、生物多様性条約は地域にこだわらない。

農業湿地としての水田の特性を生かした農業にラムサール条約と生物多様性条約を活かす方法を考える。

世界のお米の生産の9割はアジア地域。理想の水田の姿は、牛と鳥と魚と昆虫と人と稲とさまざまな水辺植物が共存する姿。水田は魚や水辺植物というお米以外の食糧も生産し

ている。

33g35gカンボジアのカンポントム県で、利用されている田んぼの生きもの。魚70種、爬虫類8種、両生類2種、甲殻類6種、軟体動物1種、昆虫類2種、水生植物13種。

37g36g水田は氾濫原の生態系を保全できる。
水田は水辺の多様なエコトーンを形成できる。

エコトーンは移行帯または推移帯といわれる。水の深さ、土の水分状態が少しづつ変化するため、さまざまな植物や生物が生息できる。

39g40g自然の多様性は、そこから獲れる食材の食べ方や保存方法のの多様性も生み出している。そして魚を獲る方法の多様性など、文化の多様性ももたらしている。

ラオスの家庭で消費される動物質の食材の約2/3は田んぼで収穫している。田んぼはお米の生産だけの場ではなく、複合生産の場なのである。魚類の半分。重要な食料である

41g42g両性類については、その9割を田んぼで採取している。日々の食材の供給源になっている。

水田の生物多様性を活かしたアジアモデルづくりを蕪栗沼・伊豆沼・化女沼で行っている。ガンが生息できる環境と農業生産の調和をめざしている。

46g43g44g45g_247g琵琶湖のニゴロブナは郷土食の鮒ずしにもなる食材。ニゴロブナは田んぼに登ってきて、産卵し、稚魚は田んぼである程度、大きくなって、湖に戻っていく。水田を営み、水

田に住む魚を食べる文化は日本にもあり、アジア諸国と共通している。

魚道をつけるのでなく、堰板を連続的に設置して、階段状に水位をあげて、用水の水を田んぼへあふれさせる。設置が簡単で、住民参加でつくられて、設置された。

50g①世界の食糧戦略として水田の多様性に着目。

②持続可能な複合生産の場。

③今後予想される食糧不足対策の切り札。

工業化された農業では持続的な農業生産は不可能。水田の複合生産の力の再評価。

生物多様性の向上=環境問題=食糧問題=命の生存の問題。

51g52g田んぼの原風景は「田んぼを食べる」

水田最強の雑草=コナギ
日本では雑草だが、東南アジアではおいしい野菜

コナギは野菜よりも栄養価が高い。

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田んぼでランチ

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田んぼでたき火をして、鉄鍋(ダッチオーブン)を使って蒸料理をする。鶏肉・ジャガイモ・玉ねぎ・人参・キャベツ・カブラ。水を入れなくても、野菜の水分だけで野菜スープになる。あえて味付けをしないで、野菜と鶏肉のもつ風味だけでいただく。

小雨が降ってきたので、集会所で食べることになった。一斗カンで鶏肉をスモークする。スモークも、蒸し焼きなので、煙は出ないので、コンロで簡単に調理することにした。

9月の末に種を播いたカブラは順調に育っていた。田んぼを提供してくださっている東根さんに、大根、レタスをいただく。もちろん無農薬栽培。

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朝立彦神社へ行く

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朝立彦神社は徳島市飯谷町小竹にある。飯谷小学校の前の潜水橋のひとつ上流の潜水橋をわたり左へ、山村の坂道をどんどん登っていく。道は一本道。自動車の通れる道の行き止まりまで行き、そこから杉林の中を徒歩で登っていくか、その一つ手前のミカンの植わっている石垣の段々畑の脇の道を徒歩で登っていく。

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台風の激しい風と雨がかけぬけていく山の尾根にある神社なので、中津峰の山頂の天津神社と同じように、防風石垣だろうか、背後を石垣で囲まれてまもられている。

神社の家紋なのだろうか、ひとつ巴の文がついている。

神社の前には小さな農村舞台がある。

勝浦町と堺の尾根の上にある。『延喜式神名帳』に記載されている阿波の神社50社のひとつ「阿佐多知比古神社」がこの神社といわれている。

『延喜式』は905年(延喜5年)醍醐天皇の命により藤原時平らが編集を開始、時平の死後は藤原忠平が編集を引き継ぎ、927年(延長5年)に一応完成した。その後も改訂が加えられ、40年後の967年(康保4年)より施行された。この『延喜式』に載っている神社は西暦967年よりも古い神社ということになる。

8asa7asa中世には「護王権現」とよばれていた。明治4年に朝立彦神社と改称された。神社の真裏に「お亀」と呼ばれる石灰岩の巨石があり、これがそもそもの御神体と思われる。

この「お亀」には「お亀の池」という2尺あまりの穴があり、この水は一年中、涸れないという。このことから、この地域では祈雨の神として霊験あらたかな社であるとされている。

12asa23asa山川町の岩戸神社の巨石「おごけ」にも一年中涸れることのない岩穴「延命水」がある。同じ信仰の形を感じる。岩戸神社の「おごけ」は麻の繊維を晒したものを叩いてほぐした石であるといわれている。朝立彦神社のアサとは繊維の麻のことかもしれない。

Bizan1Hinomine1また、吉野川と鳴門海峡を見下ろす大麻彦神社と対をなす、勝浦川、那賀川を見下ろし、橘湾蒲生田岬を望む神社だったのかもしれないと思う。神社の東は公園になったいて、その最端の展望台からは眉山の後ろに特徴的な大麻山の姿が見える。日の峯も見える。

『阿波志』には、「和多津見豊玉彦命を祭る。飯谷村に在り、俗に権現と云う」との記載がある。『寛保改神社帳』には「飯谷村護王大権現、別当飯谷村醍醐寺」と記されている。

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1asaワダツの神は豊玉姫が有名であるが、ここではヒコとあり男性の神様のようである。「お亀」は東南に開け、とても見はらしがいい。

眼下には勝浦川と那賀川の雄大な流れが見え、那賀川がつくった河口デルタ地帯が一望でき、その先に蒲生田岬と伊島が見える。

海がよく見えるのでワダツミノの神が祭られていてもおかしくないが、式内社阿佐多知比古神社というなら、祭られているのは阿佐多知比古と思われる。

阿佐多知比古を祭る神社は日本にここにしかない。この地域に固有の神様である。

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神社より西に、少し尾根を登った所に山神社がある。大きな自然石の岩クラがあり、それによりそうように祠が2つある。

17asa19asa参道の山道の沢が清めの水になっていた。沢を渡る石橋も立派な感じである。

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フィールドワーク内樋川の「ふなかえ」

『大神子(徳島郷土双書12)』昭和42年5月25日発行より

編集者:大神子研究会 代表者:河野幸夫・高橋新平・宮崎寿郎 発行者:河野定一 発行所:徳島県教育会出版部

217ページ~221ページを引用

「ふなかえ」は毎年、決まった日にやるのではなく、稲刈が一段落した晩秋。内樋川の上流を村人総出で堰き止めて、水をすべてかえ出して、魚やエビを取りつくすという行事。

低湿地帯のため、川が浅くなることは、即洪水の心配が伴う地域であり、川には土砂の流れ込みが多く、水草がよく繁茂したので、川の排水をよくするために、年に一度はこのような大がかりな川掃除をする必要があった。

朝早くから、水車・鍬・かご・歩み板・桶などの必要な道具を持って川に集まり、水門は夜半の干潮時に完全に閉められ、水位をかなり低くしておく、川は上・中・下という3つの区画に区分され、村の総代さんのくじ引きで人々はそれぞれに配置される。各区画はさらに30メートルごとに仮堤防で仕切られ、隣接する区画へ水をかい出すことで、水を抜いていく。

フナ・イナ・ナマズ・コイ・ウナギ・エビ・ハエなどがつかみ捕りされる。夕刻、捕まえた獲物はイ一箇所に集められ、出勤者に分配される。分配は道具持参者はその道具(水車・樋・とおしみ・鍬など)の貴重さに応じて割り増しがつく。一家にとしごろの男子がいない家は、女や子どもが参加する家もある。そういう場合は、川ぶちに拾い残した小魚を横から勝手にとることが許されたが、最後の分け前はもらえなかった。一家の主人が出ている場合は、その家の女・子どもは参加するのを遠慮した。

世話人はいちばんみごとな獲物数匹を村の駐在さんにプレゼントすることになっていた。川魚に漁業権が設定される前からの行事ではあるが、近代となった日本では密漁ということになるということなのだろうか?

冷蔵庫のない時代、獲物の魚はその日のうちに焼いてしまわないといけなかった。3センチほどの小ブナやハエは数十匹を串に刺して焼いた。火鉢では追いつかないので、土間に四角い穴を掘り、そこに炭火をおこして焼いた。

大きな魚は藁束でつくった「すぼけ」のまわりに放射状に刺し、天井に吊るて乾燥する。これは冬の貴重な動物性食品となった。漁が多い年は、「すぼけ」が7つくらいできることもあったが、すくない年は2つくらいになることもあった。

この風習は明治時代より古くからあり、戦時中は労働力不足から一時途絶えるが、戦後は食糧難のため復活し、昭和30年ころまで続き、再び農家の労働力不足のため絶えた。一説によると、農薬の普及のため、魚が激減したので止まったともいう。

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フィールドワーク:芝山のおとめの考

『大神子(徳島郷土双書12)』昭和42年5月25日発行より

編集者:大神子研究会 代表者:河野幸夫・高橋新平・宮崎寿郎 発行者:河野定一 発行所:徳島県教育会出版部

173ページ~178ページを引用

『勝浦郡志』によると阿波藩は林務だけを司る林方奉行を設け、その下に①手代(諸般の願書・届出書・伺書などを取り扱う役)②林検見(下民の諸願により払い下げる地所の検地・草木の栽培・手入れをなどを取り行う役)③受取役(一切の金銭出納)④林裁判役⑤制道役⑥下見役を配置していた。

芝山は全体が「御林」であり、一切の伐採が禁止されていた。

藩主が狩猟にご来遊のときは、村人は獣を追い出す「勢子(せこ)」としてかり出された。集合場所はたいてい「ふかうそ谷」の奥にある鏡岩あたりで、合図があると、大声をたてつつ獣を殿様のいる方へ追い込んだ。これはかなりの重労働だった。

御止野では作物を食害する害鳥であっても、それを捕殺することは禁止されていた。農民は繩鉄砲という5尺ほどの縄で二、三回丸くふりまわして、急に横へ払うとパンという爆音がするしかけだった。秋になると、農民は夜通しこの縄鉄砲を鳴らして走り回っていたという。この仕事は自衛の意味も持っていたので、重労働であったが苦ではなかったという。害鳥は鶴・雁・鴨・鷺だった。

大原の古い家には鹿の角を持っている家が多い。御止野だったため、鹿・兎・猪・狸・狐・ムジナ・鶴・コウノトリ・鷺・雁が無数にいたという。藩制が終わっても、地元の人には御止野でなくなったというような情報は伝わっていなかったので、しばらくの間は、だれも猟をするものはいなかったが、自然と猟をするひとが増えた。いつ解禁になったという日はなく、自然と捕るようになった。

あまりにも農作物への被害が多いので、農民が藩へ狩猟の許可を願い出た記録が残っている。藩は一定の制限を設けて、これを許可していた。

藩が発行した収量許可書は板製で長さ13センチ×幅9センチ

表には「大原浦田台出立毛荒候鹿鉄砲ニ而打可申候田台出候鹿之外猥ニ鉄砲打申間敷候」裏面には「依之印形遣置者也宝永六年七月二十五日」

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フィールドワーク:篭の地名の由来

『大神子(徳島郷土双書12)』昭和42年5月25日発行より

編集者:大神子研究会 代表者:河野幸夫・高橋新平・宮崎寿郎 発行者:河野定一 発行所:徳島県教育会出版部

18ページ~36ページを引用

河の流れによってできた岸の小高いところを河砂處(かすか)という。加須賀(かすか)または加賀(かか)と書く。これが転じて篭(カゴ)になったのではないか?

明治11年の『阿波国郡誌編輯調簿』には、「東ハ一円海ニ臨ミ南北ニ山ヲ負ヒ西ニ勝浦川ヲ帯ヒ地勢東西ニ長ク南北ニ短シ舟運ハ便ニシテ陸運可ナラス」とある。

「大正谷」は明治後期の勝浦郡地図には「於庄谷」と書いてあり、和尚が住んでいた谷の意味だろうか?

「寺谷」には、女人禁制の伝説があり、実際に寺があったのではないか?明治時代、広沢数朗氏が開墾中、寺らしい瓦片や煉石多数を掘り起こし、大きな松の株があったという。

「フカウソ」は明治以降の地図や『郡村誌』には「フコウソ」とあり、『分間絵図』には「フカソウ」とある。このあたりは最も深い水田で、農夫の腰までつかるので、まさに「深そう」の意味であったのでは?この地名の範囲は谷にも及んでいるので「深そうな谷」という意味か?

「大神子」は『阿波誌』には「王御子」とある。海のことを大水(おおみ)といったので、大水処(おおみこ)または大海処(おおうみこ)という意味だろう?

谷と池、日の峰一帯は島であり、周りは海水が入り込んでいたので、谷の水は貴重であった。『郡村誌調簿』によると、水田にそそぐ谷には、そのほとんどに堰がつくられ池が設けられており、飲料から農業まで幅広く使っていた。勝浦川から用水が引けるようになって、明治末にはほとんどの池が水田に姿を変えた。

大正谷池・三つ谷池・菜切谷池・尻江池・池内池・馬越上池・馬越下池・外籠池・荒神池

「糠坪」は日当たりが悪く、風通しも悪かったので、ウンカの被害がおびたたしく、大発生したウンカの屍が田んぼにふりつもって、まるで地面に糠をまいたようだったからこの地名になった。『郡村誌調簿』には「山神社小社本浦東南間字糠坪ニ座ス」とある。

「高砂」は『郡村誌調簿』には「谷水ナシ」とある。高砂谷がつくる小さな扇状地で礫が堆積し水が地下にもぐっていたのだろう。

大神子住宅団地は昭和41年に実現。それまでは一毛田が広がる水田地帯で家は一軒もなく、梅雨や台風のときには一面の湖となっていた。「大原村」とは言われず「大原浦」と言われていた。浦は『大言海』によると裏の意味で、表海(外海)に対する裏海(内海)

『郡村誌調簿』のは「本浦古時本郡餘戸ニ属シ郷ニ属スルナシ海中ノ洲タリシ故ナリト云フ(風土記)」とある。旧国道55号より大神子ドライブウェイに曲がり150mほど行く、段ボール会社のあるあたりが「シレイ」でこれは「尻江」の意味で入り江の尻(端)の意味。

「広裏」は入り江の中、「池内」も湖の中

「長尾」は「なごお」であり「波残り」や「余波」の意味。潮が引いたときに潮だまりができるような場所だったのだろうか?長尾の中心を内樋川が貫いているが、この川が設けられる前は、低いところには潮が満ち引きしていたのだろう。

「芝山」は藩政時代の「御止野(おとめの)」で庶民の立入りは禁止されていた。大神子の仁木氏(後に呉服氏となる)が紺屋の灰汁の材料として、山の柴を下賜され「柴山」になった。海上保安庁水路部発行の海図には「芝山」ではなく「柴山」と記されている。

御止野の木は幕末の長州出兵の阿波藩の資金として上木が切られた。

小神子の山中に「炭床谷」がある。250年前、ここに住み着いたといわれる人は炭焼きをした。『郡村誌調簿』には「薪ハ乏シカラスト雖モ炭トス」とある。金を得るために薪を炭にしたが、そのための燃料は乏しかったという意味か?

外籠山の東側に「かまとこ」の地名がある。大正のころ、田所眉東氏が古墳を発見した、埴輪片が多数あり、横穴式の古墳で口は淡路島の方へ開いていた。その後荒廃し、昭和39年の秋山泰氏・杉本猷雄氏の調査ではその所在が確認できなかった。

「日ノ峰」は『日峯神社略記』に「十三代成務天皇五月九日粟、長の両国が置かれ事代主命の子孫韓脊足尼が長国造に任ぜられ先例によって日峯で火焚の神事を行い祖神に政治の成就を祈願した。この火焚は今も伝る。旧七月十八日火焚祭」

続けて「天平勝宝2年(西暦750年)豊野真人篠原という人阿波守に任じられ、翌年国中悪病流行し人民の甚しく苦しむ。日峯に火焚の神事なし祖神に祈願する。さしもの病魔退散する。後社殿を建立し奉斉せしものと伝えられる。」

日ノ峰は火の峯と里の人が言ったことに由来する。

「論田」洪水によって泥が運ばれて、田んぼの境界がわからなくなり、田の境界を論じたから「論田」となった。

異本『阿波誌』に「論田浦、家正公御入国の時節当浦人家なし、御入国ありて寺島武士の屋敷と成に及んで此地の土人拾余人(または軒と右に記入)此浦に移らしむ」家正入国は天正3年(西暦1585年)

文化7年(1810年)の分間絵図では、すでに勝浦川の堤防は完備され、堤防沿いに住家九十余戸と記入されている。家はかなり密集している。

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