« 地球の生きものを支えている光合成! | トップページ | 荒神さまとあやつこ »

2016年1月18日 (月)

かもとくしま伝説と清玄坊さんと竜王神

Seigenbousan_2

城山の山頂には清玄坊さんを祀る塚がある。

その由来書には、清玄坊の元祖は清和天皇で、皇子民籍降下にあたり天皇より「源氏」の称号を賜わり、後に修験者となり三好家と共に、阿波に移り城山に祈祷所を建てていた。

蜂須賀公が阿波に入国、築城に際し付近の全寺社に移転を命じたが、清玄坊だけは頑としてこれに応じない為、蜂須賀公は一計を編み換地を与えると言って城下に連れ出し、紙屋町を通行中後から弓で射て謀殺した。途端に蜂須賀家には、変事が続出したので公は清玄坊の祟に違いないと、前非を悔いて石碑をたて、末代まで供養することを誓った所、此の変事はピタリと止ったという。以来紙屋町の住民は毎年お祭を続けている。清玄坊の長男範月は蜂須賀家政公と和睦をし、父の菩提を弔う為、刻んだ石地蔵が霊験あらたかで、現在掃溜地蔵として瑞巌寺に安置する。次男右京院、三男左京院は難を逃れて、阿波郡の東西善地に落ち着き、祈祷の傍ら農業をしながら酒巻家として今日に至っている。その子孫の五宝翁太郎は徳島県立聾唖学校の創始者であり初代校長でもある。又真珠湾攻撃で魚雷不発の為、九死に一生を得た特攻隊員の酒巻和男も此の子孫である。」とある。

Seigenbousan

清玄坊が暗殺されたという紙町では、清玄坊を供養する祭りが行われており、文化年間『諸国風俗問状答 市中歳節記』に記載されている江戸時代の清玄坊祭りの様子によると、「政元、頭は坊主、首元より蛇体にて、両手つき申候。(中略)胴は厚紙にて仕立、長さ八間、尾先にて六尺の剣付、首元にて廻り一丈二尺也。胴は上下とも竹の輪にて仕舞申也。背は鱗を彩色、蛇腹赤にて候。(中略)右胴へ首をさし入、輪を結びつけ、両腕付き申候。此やうにして天窓に鉄の環をうち、是に綱を付、柱の上なる千力形の車に通して引上る也。斯すれば首元の輪より風を吹入れ、尾先まで横に吹上げうちなびき、両手へも風の籠れば、手をはり手を叩くやうになり申あり様、物凄く見慣れぬ子どもなどは大いに怖申事に候。」どでかい坊主頭、ギョロリトした目に、どんぐり鼻、口は耳まで裂けていた。体は腹の赤い蛇で、空中に浮いていた。子どもたちはこれを見上げて「清玄坊手をたたけ」とはやしたという。この張り子の清玄坊は明治まで続き、大正時代は頭だけが当番の家に飾られるようになった。戦争で焼けてしまい、一時期絶えるが、昭和39年に復活する。旧暦5月5日に徳島市一番町の町内会主催で清玄坊祭りがおこなわれる。

『阿波の民俗一年中行事』より。まるで蛇のおばけである。

城下町が築かれる前は、吉野川の河口デルタの湿地帯に、ぽつんとある照葉樹林に覆われた小山といった風景であったと思う。

Ryuousannokusu

城山の麓にある竜王さんの楠木は樹齢600年。倒れているのは昭和9年の室戸台風のため。竜王さんの名は、この楠の木の西100mのところに、かつて竜王神社が祀られていたことによる。この神社は明治8年の徳島城取り壊しの際に、伊賀町1丁目の国瑞彦神社に移転させられた。国瑞彦神社は文化3年(1806年)11月創建、十二代藩主蜂須賀治昭公が藩祖家公をしのび「国瑞彦」の神号を受けて伊賀町の八幡神社の北隣に祀ったのがはじまり。(以上ウキペディアより)

Tokusimajyouzu

↑は徳島城博物館発行『徳島城下絵図』に収録されている安永9年(1780年)以前の徳島城の絵図には、山の西の端の石垣の上に龍王宮があり、逆に、山の上には現在のような清玄坊さんの塚はない。その場所あたりには時を告げるためと思われる鐘搗堂が見える。

竜王さんとは海神の姫君である豊玉姫のことである。蜂須賀家政は徳島城を建てるにあたって、城山の周辺の寺社をことごとく移転したが、この竜王神社は移転しなかった。それは清玄坊さんのタタリと何か関係しているのではないだろうか?清玄坊さんが祀っていたのが竜王神だったので、竜王神社だけは城内に残されたのではないかと考えることもできる。

Bentenike59Benten88881

現在、山頂にある清玄坊さんの祠は、かつて山頂に軍神を祀る護国神社があったため、その参道の脇につくられたもので、明治以降の新しいものなのではないだろうか?清玄坊さんを祀った祠は山の登り口のところの弁天池の素月堂ではないかと考えられている。素月は清玄坊さんの本名だという話もある。潮の満ち引きと関係する月は海洋民の信仰の対象でもある。

蜂須賀氏は猪山に城を構え、地名を今に続く「徳島」に改めた。なぜ徳島にしたのか?すでに東側に福島があり、福に対して徳としたという説の他に、自分がワニの姿になってお産しているのを見られて、山幸彦と別れることとなった豊玉姫が、山幸彦に送った歌。それに対して山幸彦が送った返歌の「鴨とく島」から「徳島」となったという説がある。

豊玉姫は、生まれた子ども天津日高日子波限建鵜草葺不合命と、その養育のために妹玉依姫を残して、海へ戻っていった。そのときに夫山幸彦に送った歌が

赤玉は緒さえ光れど白玉の君が装ひし貴くありけり

ここにその夫、答えて

沖つ鳥 鴨とく島にわがゐ寝しイモは忘れじ世のことごとに

徳島という地名には、豊玉姫に敬意を表すことで、清玄坊さんのタタリを鎮めるためのものではないだろうか?祟りの負のパワーを、きちんと祀ることで逆転させて正のパワーにすると、ものすごい強力な現世利益をもたらす神様に変化する。徳島のはじまりに清玄坊さんがいて、その祟りのパワーを逆転させて、町を発展させるエネルギーに変えようとした、だから町の名前を「徳島」にした。それなら面白いと思う。

徳島の郷土史研究家の岩利大閑氏は著書『道は阿波より始まる』の中で、「大正時代に、市民からの強い要望で市長が動き、城山では1か月に渡る調査が行われて、その結果、貝殻の腕輪をつけ、頭髪に本櫛を飾った女性の完全な人骨と全国でも珍しい大粒の砂金を練り込んだ素焼の壺の一片が出土され、残りの壺はいまだ土中にある。出土品の重要なものは東大研究室へ移送された。」というエピソードを紹介している。この女性が豊玉姫ということなのか?

城山こと猪山は豊玉姫を祀る聖域であり、かつて清玄坊さんも豊玉姫を祀っていた。徳島は潮の香りのする海洋都市。その中心に豊玉姫をいただくなら面白いことだと思う。

« 地球の生きものを支えている光合成! | トップページ | 荒神さまとあやつこ »

伝説探検隊」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/137663/63086768

この記事へのトラックバック一覧です: かもとくしま伝説と清玄坊さんと竜王神:

« 地球の生きものを支えている光合成! | トップページ | 荒神さまとあやつこ »

2016年5月

1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
25
26
27
28
29
30
31