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2016年1月15日 (金)

阿波のオオゲツヒメ

Oogetuhime●写真は徳島県神山町神領の上一宮大粟神社に伝わるオオゲツヒメの掛軸。粟の穂と三種の神器と思われる鏡と刀と玉をもっている。

オオゲツヒメは古事記・日本書記に4回も登場する。

●イザナギとイザナミは国土となる島をどんどん生んでいく。1番目は淡路島=淡道之穂之狭別島(あはぢのほのさわけのしま)、2番目に産んだのが四国=伊予之二名島(いよのふたなのしま)といい胴体が1つで、顔が4つある。顔のそれぞれの名は伊予が 愛比売(えひめ)讃岐が飯依比古(いひよりひこ阿波が大宜都比売(おほげつひめ)、土佐は建依別(たけよりわけ)。

阿波のオオゲツヒメは、国産み神話に続く、神産み神話の中にもう一度登場する。イザナギとイザナミは日本の島々を産み終わると、家宅に関する6柱の神を生む。

大事忍男神(おほことおしをのかみ)、石土毘古神(いはつちびこのかみ)、石巣比売神(いはすひめのかみ)、大戸日別神(おほとひわけのかみ)、天之吹男神(あめのふきおのかみ)、大屋毘古神(おほやびこのかみ)、風木津別之忍男神(かざもつわけのおしをのかみ)

次に海の神、大綿津見神(おほわたつみのかみ)を産む。
次に水に関する2柱の神を産む。
速秋津日子神(はやあきつひこのかみ)、速秋津比売神(はやあきつひめのかみ)

速秋津日子神と速秋津比売神はやはり水に関係する4対8柱の神を産む。
沫那藝神(あはなぎのかみ)、沫那美神(あはなみのかみ)
頬那藝神(つらなぎのかみ)、頬那美神(つらなみのかみ)
天之水分神(あめのみくまりのかみ)、国之水分神(くにのみくまりのかみ)
天之久比奢母智神(あめのくひざもちのかみ)、国之久比奢母智神(くにのくひざもちのかみ)

「大祓詞」では、川上にいる瀬織津比売神によって海に流された罪・穢を、「荒潮の潮の八百道の八潮道の潮の八百会に坐す速開津比売(はやあきつひめ)と云ふ神」が呑み込んでしまうと記されている。

次に風の神、志那都比古神(しなつひこのかみ)
次に木の神、久久能智神(くくのちのかみ)
次に山の神、大山津見神(おほやまつみのかみ)
次に野の神、鹿屋野比売神(かやのひめのかみ)別名は野椎神(のづちのかみ)

大山津見神と野椎神は4対8柱の神を産む
天之狭土神(あめのさづちのかみ)、国之狭土神(くにのさづちのかみ)
天之狭霧神(あめのさぎりのかみ)、国之狭霧神(くにのさぎりのかみ)
天之闇戸神(あめのくらどのかみ)、国之闇戸神(くにのくらどのかみ)
大戸惑子神(おほとまとひこのかみ)、大戸惑女神(おほとまとひめのかみ)

とまとは「とをまりど」の略で、たわんでいる所という意味。山の傾斜面ということか?

次に穀物を保存する楠の木で作られた入れ物の神、鳥之石楠船神(とりのいはくすぶねのかみ)別名は天鳥船(あめのとりふね)

●次に食べものの神、大宜都比売神(おほげつひめのかみ)これが2回目の登場。

そして火の神である火之夜藝速男神(ひのやぎはやをのかみ)別名は火之炫毘古神(ひのかがびこのかみ)別名は火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)を産んだことでイザナミは火傷を負って死んでしまう。

●オオゲツヒメが3回目に登場するのは、高天原を追放されたスサノオが、空腹を覚えてオオゲツヒメに食物を求める。オオゲツヒメはおもむろに様々な食物をスサノオに与えた。それを不審に思ったスサノオが食事の用意をするオオゲツヒメの様子を覗いてみると、オオゲツヒメは鼻や口、尻から食材を取り出し、それを調理していた。スサノオは、そんな汚い物を食べさせていたのかと怒り、オオゲツヒメを斬り殺してしまった。すると、オオゲツヒメの頭から蚕が生まれ、目から稲が生まれ、耳から粟が生まれ、鼻から小豆が生まれ、陰部から麦が生まれ、尻から大豆が生まれた。

●オオゲツヒメはスサノオに殺される。ところが大年神のエピソードに中に4度目の登場をする。
スサノオと大山津見神の娘、神大市比売(かむおおいちひめ)の間には大年神(おおとしのかみ)宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)が産まれた。
大年神と天知迦流美豆比売(あめちかるみずひめ)との間の子ども羽山戸神(はやまとのかみ)の妻としてオオゲツヒメが登場し、2柱の間には8柱の神が生まれた。

若山咋神(わかやまくい)山の神。
若年神(わかとし)新年の神。
若狭那売神(わかさなめ)田植えをする早乙女の意。
弥豆麻岐神(みづまき)水撒き・灌漑の神。
夏高津日神(なつたかのひ)別名 夏之売神(なつのめ)夏の高く照る日の神の意。
秋毘売神(あきびめ)秋の女神。
久久年神(くくとし)稲の茎が伸びることの意。
久久紀若室葛根神(くくきわかむろつなね)別名 若室葛根(わかむろつなね)。新しい室を建てて葛の綱で結ぶの意。新嘗祭のための屋舎を建てることと考えられる。

●オオゲツヒメとハイヌウェレ型神話

名前の「オオ」は「多い」の意味、「ケ」は食物の意で、穀物や食物の神である。穀物・養蚕の神として信仰されるが、後に同じ穀物の神である稲荷神と混同されるようになり、ウカノミタマの代わりに稲荷社に祀られることもある。

死んだ神の遺体から栽培作物が生じる神話は「ハイヌウェレ型神話」といわれる。

ハイヌウェレ型神話とは、世界各地に見られる食物起源神話の型式の一つで、殺された神の死体から作物が生まれたとするものである。とくに球根類が生じるという説話は、東南アジアから大洋州・中南米・アフリカに広く分布している。芋類を切断し地中に埋めると、再生し食料が得られることが背景にあると考えられる。その名前は、民俗学者・アードルフ・イェンゼンが、その典型例としたインドネシア・セラム島のヴェマーレ族の神話に登場する女神の名前から命名したものである。

ヴェマーレ族のハイヌウェレの神話は次のようなものである。ココヤシの花から生まれたハイヌウェレという少女は、様々な宝物を大便として排出することができた。あるとき、踊りを舞いながらその宝物を村人に配ったところ、村人たちは気味悪がって彼女を生き埋めにして殺してしまった。ハイヌウェレの父親は、掘り出した死体を切り刻んであちこちに埋めた。すると、彼女の死体からは様々な種類の芋が発生し、人々の主食となった。

岡正雄氏『日本文化の基礎構造、日本民俗学大系2 日本民俗学の歴史と課題』平凡社、1958年によると、岡氏は日本文化は、日本列島に移入してきた民族がそれぞれにもってきたものが地層のように積み重なっていると考え、移入した時代と文化がどこからもたらされたかを研究し、5つに分類している。

(1)母系的・秘密結社的・芋栽培=狩猟民文化
(2)母系的・陸稲栽培=狩猟民文化
(3)父系的・「ハラ」氏族的・畑作=狩猟民文化
(4)男性的・年齢階梯制的・水稲栽培=漁労民文化
(5)父権的・「ウジ」氏族的・支配者的文化

オオゲツヒメは芋栽培と関係が深いと考えられていたので、いちばん古い(1)母系的・秘密結社的・芋栽培=狩猟民文化の人々が縄文時代中期に、南方からもたらしたものと考えられている。

その文化の特徴は、乳棒状石斧・棍棒用石環・石皿・土器形態と文様・土偶・土面・集団構造・男性秘密結社の祭り(ナマハゲ)・タロ芋の一種であるサトイモを祭事の折の食物にする。

1万2千年前から2500年前まで約1万年も続いた縄文時代。その中期は約5500~4500年前。縄文時代が最も栄えた時期で、人口も縄文時代中、最も多い。その人口は東日本に偏っていて、100k㎡あたりの推定人口は、長野を中心とした内陸(260)関東平野(300人)東海(106人)北陸(100人)東北(71人)。西日本は人口が少ない。近畿(8人)四国(1人)中国地方(4人)九州(13人)。

黒潮から分流した対馬暖流は日本海に入り、シベリア寒気にふれて、大量の水蒸気をわかせ、大量の雪を日本に降らせた。その雪溶け水に育てられた豊かなナラの森。その森を生活基盤とするドングリ・クルミ・クリ・トチノミとサケ・マスを食べる文化であった。ナラ樹林文化ともいわれる。

オオゲツヒメ神話は黒潮の民によって、南方からつたえられ、まだ人口の少なかった西日本の照葉樹林の森に移入していったのだろうか。

●アワとオゲツヒメ

阿波は作物の粟と関係があるのだろうか?関係があるかもしれないが、アワは、アオ、アブ、アモウとかいう地名と同様に東を意味する。アワは昇る朝日を拝む聖地の意味ではないだろうか?またアワには、こちらの岸から向こうの岸に「渡ったところ」という意味がある。

佐々木高明氏は照葉樹林文化の発達段階は3段階あると考えた。
そしてオオゲツヒメ神話は焼畑で陸稲栽培をする民がもたらしたと考えている。

岡正雄氏の説でいえば、縄文末期に日本に流入した。(2)母系的・陸稲栽培=狩猟民文化。アウストロジア語系の民族の文化と一致。狩猟生活とともに山地丘陵の斜面の焼畑において陸稲を栽培した。太陽神アマテラスの崇拝・家族的・村落共同的シャーマニズム・司祭的女性支配者。という文化をもった民である。

ちなみにアウストロジアとは南アジアという意味で、ベトナム・ラオス・カンボジア・マレー半島の山間部・ミャンマーのラオスよりの山間部、バングラデシュ・東部インドに散在する民族のこと。

アワ系の地名は沖縄の泡瀬干潟から千葉の安房国まで、黒潮の流れに沿って太平洋側に広がっている。

伊勢湾の三重県神島では年越しにアワとよばれる太陽に見立てた張りぼてをつくり、これを竹でしばいて、活力を与え、高く高く掲げるという祭り、ゲータ―祭が行われている。アワは朝日を拝む聖地と関係し、オオゲツヒメ神話は太陽神アマテラス崇拝と共に東南アジアからやってきた。そう考えるなら、古事記の「阿波国をオオゲツヒメ」とは太陽神と食物神という関係となる。

●ちなみに佐々木氏の照葉樹林文化の3段階の発達段階は

①プレ農耕の段階(狩猟・漁撈・採集活動が生業の中心)
水さらしによるアク抜き技法
ウルシの利用
食べ茶の慣行
堅果類を産する樹木の半栽培
クズ・ビワ・ヤマノイモ・ヒガンハナ等の半栽培
野蚕の利用
エゴマ・ヒョウタン・陸稲の栽培

②雑穀を主とした焼畑の段階(雑穀・根栽型の焼畑農耕が生業の中心)
飲み茶の慣行
ウルシを用いる漆器製作
マユから絹を作る技法
麹を用いるツブ酒の醸造
味噌・納豆などの大豆発酵食品
コンニャクの食用慣行
モチ種の穀類の開発と利用、その儀礼的使用
オオゲツヒメ型神話、洪水神話、羽衣伝説
歌垣
里芋の儀礼的使用、八月十五夜

③稲作ドミナントの段階(水田稲作農耕が生業の中心)
ナレズシづくりの慣行
鵜飼の習俗
高床家屋

稲作は北九州から伊勢湾沿岸まで、わずか数十年で広まったことが分かっている。岐阜・長野などの内陸は縄文文化が強く稲作はなかなか受け入れられなかった。

稲作の急速な普及の下地として、焼畑農耕をして雑穀をつくる照葉樹林文化があったと考えられている。

●黒潮が運んできた南方文化と初期の照葉樹林文化の定住集落

鹿児島県の上野原遺跡からは、日本で最古と考えられる約9,500年前の集落跡が発見されている。2条の道跡と52軒の竪穴住居跡群、39基の集石や16基の連穴土坑は調理施設と考えられている。この定住集落を支えていたのは、シイなどのドングリがなる照葉樹林の豊かな森であったと考えられている。そしてこの上野原の縄文文化は、貝殻を押し当てて文様にした土器を使用し、丸木をくり抜いて船をつくることができる磨製の丸のみ石器を使う、黒潮に乗り南方からやってきた、海の香りのする人々であったことがわかっている。しかし、この集落は約6300年前の鬼界カルデラの大噴火で消滅してしまっている。

鹿児島県の上野原遺跡のHP

6300年前の鬼界カルデラの大噴火で南九州は壊滅し、長く人が住める状態ではなくなってしまったと考えられる。そして西日本の地域には火山灰が降り、やはり大きなダメージを受けたと考えられる。しかし、この上野原遺跡の文化は完全に消滅したわけではなく、いくらかは他の地域に受け継がれたのではないかと考える。また、黒潮に乗ってやってい来る移民は、南九州には上陸できなくなったため、四国へ上陸したのではないだろうか?

●黒潮に乗ってやってきたオオゲツヒメは焼畑農業の女神

焼畑は、森を切り開いて、その樹木を焼いて灰にしたものを唯一の肥料として栽培をするので、5年ほどで、肥料分が切れてしまい、収量が上がらなくなる。それで、次の場所を切り開いて新しい畑をつくる。放棄された畑は10年ほどで元の森に戻る。これは温暖で雨が多く、火山灰土ではなく海から隆起してできた土壌を持つ四国の森の再生力の強さゆえのことである。熱帯ではそのまま強烈な日差しによって砂漠になってしまうこともある。

四国山地の調査を進めてきた篠原重則氏(香川大学教授)によると、「焼畑農法は、現在でも東南アジアを始め世界の各地で広くみられるが、わが国においても焼畑は縄文時代から盛んに行われ、当時のごく一般的な農法であったといわれている。また、わが国の焼畑は、北は東北地方から南は九州に至るまで、南北に広く展開していたが、昭和11年 (1936年)に農林省山林局が焼畑の調査をした時点では、四国山地は全国一の焼畑地帯であり、全国77.417町歩(ha)のうち、四国の焼畑面積は、その46.4%を占めていた。」と述べている。

焼き方は焼く季節によって4種類ある。①トウモロコシを栽培する「春焼き」。②「ソバやぶ」といって夏焼くもの。③土用にやる「カジキ」は大豆を作る。④「ムギやぶ」という秋焼き。

主はトウキビの栽培で、焼畑をした後、2年くらいまではよくできるが、それ以上になると取れなくなる。それで3年目からはアズキを播く。そしてアズキもできんようになったら、今度はアワを播く。それで大体5~6年になるので、その後は荒らす(放任する)こととなる。

オオゲツヒメの体から生じる作物は、頭から蚕が生まれ、目から稲が生まれ、耳から粟が生まれ、鼻から小豆が生まれ、陰部から麦が生まれ、尻から大豆が生まれた。

中国の華北・中原において、黄河文明以来の主食は専らアワであり、「米」という漢字も本来はアワを示す文字であったといわれている。隋唐で採用された税制である租庸調においても、穀物を納付する「租」はアワで納付されるのが原則であった。華南の稲米は周(紀元前1046年頃~紀元前256年)の時代から栽培が盛んになった。稲や麦より昔、アワは主食であった。

トウモロコシは南米が原産国でヨーロッパ経由で、1579年にポルトガル人がいわゆる「南蛮黍」を伝え四国・九州の山間部で栽培され、後に日本各地に伝播し、江戸時代に水田稲作が困難な地域では、重要な作物となっていく。スートコーンは、明治になってから、北海道を開拓するにあたりアメリカから導入したのがはじまり。ゆえにオオゲツヒメの時代にトウモロコシはなかった。

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