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2016年1月 5日 (火)

お亀千軒伝説と四所神社

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勝浦川の河口の沖、約3㎞の所にある「お亀磯灯台」

■お亀千軒伝説とは

漁村の民話より→ http://www.kyosuiren.or.jp/html/page014.html

勝浦川の河口の沖、3㎞ほどのところに亀のような形の島があった。そこは船がたくさん出入りして、にぎやかだったので、「お亀千軒」と呼ばれていた。島の中ほどのお宮の狛犬には古い言い伝えがあり。「狛犬の目が赤くなったら、島は沈む」といわれていた。

これを聞きつけた海賊どもが、島にやってきて狛犬の目を赤く塗り、島の人が逃げ出した後で泥棒する計画を立て、実行した。目を塗ると狛犬は、目だけでなく怒ったように顔も体も真っ赤になった。これを見て島の人たちは大慌て。必死に船をこいで、地切れ島(現在の徳島市福島町)や津田に逃げた。

海賊どもが誰もいなくなった島の宝をいただき、島で酒盛りを始めたとたん、島がグラグラと大きく揺れ、海はゴーゴーと島の上にかぶさってきた。海賊どもも島も狛犬も、みな海の底へ沈んだ。

暗礁になってしまった島は、「お亀磯」と呼ばれ、今は灯台が建っている。水のそこに石畳や鳥居が見えるというお話があって、潜って調べた人もあるが、はっきりしたことはわからない。またお宮の御神体が地切れ島へ流れ着いて、それをお祭りしたのが福島の四所明神の起こりだという伝説もある。

顔が赤くなったのは獅子ではなくシカの像だったという話。赤く塗ったのは盗賊ではなく、ダダのうつけもののイタヅラだったという話もある。

■赤くなったら海に沈む話は中国にもある。

『捜神記』は中国の東晋の干宝が著した志怪小説集。『隋書』「経籍志」などによると、もとは30巻あったというが、散逸し、現存するのは20巻。470話が記載されている。その第326話が『城門の血』というお話。

始皇帝の時代、長水県(今の浙江省)で奇妙な童歌が流行った。「お城のご門が血によごれ、お城は沈んで湖になるぞ」これを耳にした老婆が、心配になり、毎朝城門を見に行っていたところ、門衛の隊長に怪しまれ、捕らえられそうになった。そこで、老婆が事情を話すと、門衛の隊長は何を思ったか、城門に犬の血を塗りつけた。それを見た老婆は慌てて逃げ出したが、果たして、町は洪水に襲われ、湖と化してしまった。この話がオリジナルで、そこから派生した話ではないだろうか?

大分の別府湾にあった人口五千人の瓜生島は1596年9月4日(文禄5年閏7月12日)の慶長豊後地震によって海に沈んだといわれているが、この瓜生島にも、恵比寿様の顔が赤くなると島が沈むという伝説があって、恵比寿様の顔を赤く塗ったふとどき者がいて、罰があたって本当に沈んだという伝説が伝えられている。

■お亀千軒は実在したのか?

①徳島市福島小学校蔵『異本阿波記』によると
古老伝云、往古ハおかめ千軒とて、王御子より今海中のおかめと云岩迄、山相続、千軒の浦也けると也。雪の浜或人云此おかめの浦の砂子白石にて雪のごとく成りにける故に斯呼けるとなり。

②『阿州奇事雑話』によると
其昔足利公方御治世の末、勝浦郡小松島浦の沖手に今の御瓶と云碆の邊南手に地續にて其比ハ御瓶千軒とて繁昌の浦邊にて蛭子か宮を氏神として祭りしに・・・

『阿州奇事雑話』は巻頭に「晩生横井希純記聞」とあるだけで、著者について詳しいことは分かっていない。書かれたのは寛政のころ。表題は107条ある。

③『阿波志』によると
龜磯。津田港口の南岸を距ること一里許りに在り。俗に御甕と呼ぶ、昔は漁村たりき文禄中に海嘯ありて淪で海と為る、民福島の築地に移れり…(文禄年間は1592年から1596年まで)

3つの資料から、お亀千軒の場所を推測すると、現在の大神子海岸から陸続きの半島のようなところにあったと考えられる。

■お亀千軒を沈めたのは南海大地震か?

『太平記』全40巻。軍記物語なので、やや文学的で比喩がおおげさではあるが、1318年(文保2年)の後醍醐天皇の即位から、鎌倉幕府の滅亡、建武の新政とその崩壊後の南北朝分裂、観応の擾乱、2代将軍足利義詮の死去と細川頼之の管領就任の1368年(貞治6年)頃までの約50年間のことが記されている。

その巻36「大地震附夏雪事」(正平16年6月24日寅刻)西暦にするとユリウス暦1361年7月26日4時頃、グレゴリオ暦1361年8月3日の出来事となる。

●同年の六月十八日の巳刻より同十月に至るまで、大地をびたゝ敷動て、日々夜々に止時なし。山は崩て谷を埋み、海は傾て陸地に成しかば、神社仏閣倒れ破れ、牛馬人民の死傷する事、幾千万と云数を不知。都て山川・江河・林野・村落此災に不合云所なし。中にも阿波の雪の湊と云浦には、俄に太山の如なる潮漲来て、在家一千七百余宇、悉く引塩に連て海底に沈しかば、家々に所有の僧俗男女、牛馬鶏犬、一も不残底の藻屑と成にけり。是をこそ希代の不思議と見る処に、同六月二十二日、俄に天掻曇雪降て、氷寒の甚き事冬至の前後の如し。酒を飲て身を暖め火を焼炉を囲む人は、自寒を防ぐ便りもあり、山路の樵夫、野径の旅人、牧馬、林鹿悉氷に被閉雪に臥て、凍へ死る者数を不知。

●七月二十四日には、摂津国難波浦の澳数百町、半時許乾あがりて、無量の魚共沙の上に吻ける程に、傍の浦の海人共、網を巻釣を捨て、我劣じと拾ける処に、又俄に如大山なる潮満来て、漫々たる海に成にければ、数百人の海人共、独も生きて帰は無りけり。又阿波鳴戸俄潮去て陸と成る。高く峙たる岩の上に、筒のまはり二十尋許なる大皷の、銀のびやうを打て、面には巴をかき、台には八竜を拏はせたるが顕出たり。暫は見人是を懼て不近付。三四日を経て後、近き傍の浦人共数百人集て見るに、筒は石にて面をば水牛の皮にてぞ張たりける。尋常の撥にて打たば鳴じとて、大なる鐘木を拵て、大鐘を撞様につきたりける。此大皷天に響き地を動して、三時許ぞ鳴たりける。山崩て谷に答へ、潮涌て天に漲りければ、数百人の浦人共、只今大地の底へ引入らるゝ心地して、肝魂も身に不副、倒るゝ共なく走共なく四角八方へぞ逃散ける。其後よりは弥近付人無りければ、天にや上りけん、又海中へや入けん、潮は如元満て、大皷は不見成にけり。

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鳴門の海底から現れた大きな皷(つづみ)二十尋は約36m
絵は 「福良の地名 古城 天災の記録」というHPで見つける。出典を調査中。

→ http://www.wind.sannet.ne.jp/shimada/sab22.html

●又八月二十四日の大地震に、雨荒く降り風烈く吹て、虚空暫掻くれて見へけるが、難波浦の澳より、大龍二浮出て、天王寺の金堂の中へ入ると見けるが、雲の中に鏑矢鳴響て、戈の光四方にひらめきて、大龍と四天と戦ふ体にぞ見へたりける。二の竜去る時、又大地震く動て、金堂微塵に砕にけり。され共四天は少しも損ぜさせ給はず。是は何様聖徳太子御安置の仏舎利、此堂に御坐ば、竜王是を取奉らんとするを、仏法護持の四天王、惜ませ給けるかと覚へたり。洛中辺土には、傾ぬ塔の九輪もなく、熊野参詣の道には、地の裂ぬ所も無りけり。旧記の載る所、開闢以来斯る不思議なければ、此上に又何様なる世の乱や出来らんずらんと、懼恐れぬ人は更になし。

南北朝時代で、正平は南朝の暦、北朝の暦では康安元年なので、正平地震ではなく康安地震ともいう。

『太平記』に記載されている阿波の雪の湊は現在の美波町の由岐ではなく、お亀千軒ではないだろうか?

ウィキペディアの「近代以前の日本の都市人口」によると、原田伴彦氏の室町時代の主要都市推定人口 (1942年)によると雪の湊の人口は8,500人。

土佐、九州へ向かう起点となる港で栄えていたというから、地理的に起点となるということと、食料を供給できる後背平野を持っていない由岐とは考えにくい。

『萬葉集註釋(卷第二)』には「中湖(なかのみなと)トイフハ、牟夜戸(むやのと)ト與奧湖(おくのみなと)トノ中ニ在ルガ故、中湖ヲ名ト為ス。阿波國風土記ニ見エタリ。」とある。旧吉野川の河口である鳴門の撫養以外に2つの湊があり、中と奥と呼ばれていた。阿波國風土記は、今は失われてしまっているが、奈良時代、元明天皇の勅命で編纂されたもので、713年のことである。勝浦川河口の中の湊(中の湖)と那賀川の河口の奥の湊があり、奈良時代には良港としてすでに知られていた。お亀千軒、雪の湊は中の湊の発展したものではないかと考えることができると思う。

■四所神社との関係

四所神社は主祭神が4柱あるから四所神社というのだと思う。武甕槌命(たけみかづちのみこと)・天児屋根命(あめのこやねのみこと)・斎主(いわいぬし)神・比売(ひめ)神が祀られている。これは奈良の春日大社と同じ。家紋は橘。縁起によると創建は大同2年(807年)という。

大同2年は空海が唐から帰国した年といわれ、香川の善通寺をはじめ八十八ヶ所のお寺の10%がこの年を創建としている。清水寺、長谷寺の創建もこの年であり、阿仁鉱山、尾太鉱山、高根金山、吹屋銀山など多くの鉱山の開かれた年でもある。那須の茶臼岳旧火山、尾瀬ケ原の燵ガ岳、蔵王刈田岳が噴火した年であり、日光の男体山で旱魃を静めるために勝道上人が祈祷した年であり、三湖伝説で八郎太郎が大災害を起こした年である。八溝山、森吉山、気仙郡などの鬼退治もこの年と伝えられている。大同2年は何らかの意味で縁起がよく、重要なことは大同2年に起こりやすい。

徳島市には中世、春日神社の荘園富田荘が設置される。この荘園の前進は国衙領の南助任保、津田島で、この保が興福寺回廊造営料所にあてられたことを契機に、在京の中級貴族大江泰兼は、保の荘園化を推進し、1204年(元久元年)に春日社を本家、大江泰兼を領家、在地領主粟田重政らを荘官した。四所神社は春日四所明神とも呼ばれており、神社のはじまりは、おそらくこの荘園の設置と関係があるだろう。

四所神社の建物や船だんじりは、地元の指物師が寄進したものだといわれている。福島の東には、江戸時代に阿波水軍の軍港が設置され、福島の南、大和町と呼ばれているところは、かつて大工島と呼ばれ、船大工が住んでいた。船だんじりは、明治になって、阿波水軍が解体されたとき、軍船を改造してつくったといわれている。

四所神社のだんじりは3台あり、鹿、兜、額と名づけられている。この鹿、兜、額はお亀千軒が沈んだ時に、地切れ島(今の福島)に流れ着いたといわれている。鹿と兜は福島の南西の築地に、額は東南の大工島に、それぞれ流れ着き、だんじりになったといわれている。

だんじりは毎年10月27日、28日に運行される。

ちなみにだんじりが運行されるときには、御座船太鼓がたたかれる。
トンカラカラカラ、トンカラカラカラ、トカッカカッカ、トカッカカッカ・・・

徳島藩蜂須賀家の参勤交代の船で叩かれていた太鼓のリズムが受け継がれている。

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