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2016年1月 4日 (月)

お亀千軒伝説と『燈火録』

■海に沈んだ島「お亀千軒伝説」の補足

大神子研究会編『大神子(徳島郷土双書12)』徳島県教育会出版部 昭和42年発行より

●呉服家七世又五郎義章(天保11年【1840年】死去)の遺作集『幾世水の記』

柴山の南面の海づらに大神子といふ所あり。さるは昔、大瓶(おかめ)といへる所の神のめがみなぎ二人ここに住めりけるによりて、しか名づくるとなん。女がみなぎ世にみことぞいふ。まことにや。大瓶といふは海士の千軒もありし浦になんありけるがいつの比にや、大浪に引かれてはかなく海になりしが、今も其の名残とて、ここより一里ばかりのわた中に大きなる磯の七つ立てるがありで、汐干にはあらわれ、汐満つればかくる。こは例云ひ伝ふる里のわらはのことぐさなければいかなりとも知らず。さるは天正のころ、ゆえありて此大神子を我が遠い祖に賜り、老を養う庵かたばかり結びけるが猶残りありけるもつくろいなどして、己またここにひとりうつりすみぬ。春の曙に梅の花の綻びはじむるより、峯の桜、垣根の卯の花、あるいは夏の夜の空にほととぎすの音づれを待ち、秋の夕は鹿の音にうたたねの、夢さまし、浪より出づる月影を春くるを知らずながめ、冬の朝の山の端の雪に心を遣りなどして我が身の老の行方もみながらに忘れはてたり。そもそも此庵に井あり。此水いと清らかにして味甘く茶を煎ずるによし、昔幾世と名づけたるは我が見ても久しくなりぬといえる心なるべし。かくて四つの時折ふしの憐れにひかれ、芝の戸をたたく客達に何のもてなすべき物もなく、ただ此水もて煎じたる茶をのみすすめて心のまことをかたらふになん。

幾世猶 ここにすみ得て 浅からぬ 心に汲まん 山の井の水

●文化7年(1810年)に伊能忠敬が亀磯を実測している。文化年度調製大原浦繒圖付属によると。 大崎ヨリ亀磯へ。寅廿九度三十分ト針ス。此距離三千百六間。大きな岩礁が5つあり。大きい順に、79×23m、59×27m、40×14m、23×20m、18×13m。潮の満ち引きで島の大きさは変わるが、伊能忠敬は満潮と干潮の間(中等潮位)で、島を実測している。なお、原図には「海程壱里五丁四拾六間・但曲尺弐寸ヲ以壱丁トス」

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●明治11年の阿波国郡村誌編輯調簿には「暗礁」と題し、「亀磯東西四町拾間南北弐町三拾間干潮ニハ礁頭ヲ顕ス本浦東ノ方壱里拾三町五拾間ニアリ大崎ヨリん弐拾八町ヲ隔礁標ナシ」 現在はお亀磯の岩礁は4つ。干潮のときの高さがそれぞれ0.9m、0.7m、0.2m、0.6m。 お亀千軒は大地震と津波で一瞬で沈んだ。おそらく南海大地震で沈んだものと思われる。年を経るにしたがい、7つが5つに、そして4つに、大きさも年を経るに、だんだん小さくなっている。この地帯は断層の収縮等で、ゆっくり千年の時をかけて、徐々に沈んでいったのかもしれない。

●『燈火録』その序文には

「友人元木蘆州年ころ見聞せいことども漫録せしもの若干巻あり。そが中に当国の事に係れることを別冊にして此をなづけて燈火録となんつけける。其ゆゑは眼の睫に於けるにちかしといへども、見ることかたく燈火の光も猶直下を照らすことかたしといふ意にて斯くはなづけにける。又春雨のつれづれ閑なる雪の夜など、燈に向ひて書つづりにしこともあれば燈の下にて録したりといふ意にて見られんも又ちかしと語りき。(後略)」

文化九申のとし 三月 野口信為誌」とある。文化9年は1812年である。 芝山の沖一里ばかりにおかめと称する礒岩常に海上に出るもの七つ、水中にありてあらはれざる岩十ばかり、此岩磯のもとに竜神ましますとて礒岩を汚せば忽ちに風雨し大浪立つ、其奇異なる事、鳴門の御かめに等しき故さは唱へ来れるにや知らず、旱魃の年は近村の百姓ども仮に葬送の行装を真似び舟にて此所へ来り磯上に投げ置くに必ず波浪沸出震動し雨降るなり、近年右様にせしに南斎田浦は降らざるにかの雨乞せし沖浜浦一村のみ雨ふりし事あり、むかしより霊験不思議度々ありし事人のよく知る所なり。 『燈火録』のお亀千軒の記載によると、「氏神の鳥居に鷺とまり或は高麗狗の眼中赤くなりぬれば此土地崩れ海になるべし」との言い伝えがあり、村の若い者が信心深い老夫婦をからかうつもりで、鳥居に鷺の羽根をつけ、狛犬の眼を赤く塗った。老夫婦はこれを見てびっくりし、大慌てで、家財を船に積み子孫連れて芝山に逃げた。大浪が来て一夜のうちに海中に沈んだ。「かの老嫗の子孫今中田村に在りと伝う」「又板野郡別宮浦百姓の先祖此おかめの浦より迯行て彼村を開きしと伝、彼所の云伝へなり、其遺風にて耕作のいとま海舶をは運送して業の助けとす」 四所神社の伝説では福島へ逃げたことになっている。 『燈火録』にはお亀磯の海底に竜宮があったという話が記載されている。 寛政年間の末、水泳を学びはじめた若い者が10人ほど、村の漁師につれられてお亀磯付近まで来て、アワビやエビを獲っていた。この日は大漁で、エビもアワビもたくさん獲れた。午の刻(正午)を過ぎたころのことである。 村の漁師が1人、未の刻(午後2時)になったけれど浮かんでこない。少年たちは心配してあちこちの岩の間を探したが見つからない。その中の一人の少年が、深さ四尋ばかり海底へ潜ると、人のような姿が見えたので、怪しみながら近づくと、それはお坊さんの姿のような姿で、顔、腹、腕の裏から手の内までは雪のように白く、頭から脊、脇腹を境に手の甲、腕、股から膝まで、皆瑠璃色をしており、手足の骨筋は蟹のようにで、指は5つある。2mまで近づいたが、恐怖のあまり逃げた。舟に上がった少年は「おそろしいものにであったのだ」といってくわしく説明しなかった。 申の刻(午後4時)になったが、行方不明の漁師はみつからない。漁師たちは不明の漁師は鰐に呑まれたか、岩の間に挟まってでれないか、せめて家族のためにも死骸だけでも見つけて帰ろうとしたが、少年のひとりが「おそろしいものに出合った」というので、皆、潜りたがらなかった。どうしたものか思案しているところに、不明の漁師が無事で浮いてきた。漁師たちは喜んで、舟に引き上げて、「どうして、こんなに長い時間、海の底に隠れていたのか?どのような方法で長時間潜っていられたのか」と訪ねたが、「ほんのわずかの時間にすぎなかったよ」というばかり。 夜に酒盛りをして無事を祝った。そこでいろいろ問い詰めると、白状して話し始めた。海底に光るものがる。近づいてみると、直径1mほどの美しい丸い、白色の珠があった。実にすきとおるほどに美しく、お日様のように輝き渡っており、珍しい形の石の上に置かれており、ほのかにいい匂いがして、海底であることを忘れるほどであった。よく見ると岩穴のようすが竜宮の門のようであり、サンゴや昆布や、まだ見たことのない玉のような木の枝が輝いている。門のあたりには、頭は円く、胸は白く、脊は足まで紺青をした、はだかの者がたくさん出てきて、手でわしを招いている。また、不思議な形をした赤い犬が入り出てきて、吠えはじめた。このときはじめて「これが昔から聞いていた竜宮であろうか。浦島太郎もこの竜宮で3年を過ごして、玉手箱をもらって村にかえったら100年の歳月が過ぎていた。」と気がついた。ここで長くいたら家に帰れなくなると考えて、急いで浮かび上がってきた。 これから後もこのお亀磯では、直径1mの大あわびや赤い色をした美しい磯魚を見た人は多い。

『燈火録』のエピソードは、竜宮というよりは、海で死んだ亡霊の巣といった感じに受け止められる。お亀千軒の災害で、海の底に引きずり込まれて亡くなった人たちの魂が海の底で呼んでいるという感じに受け止められる。

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