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2016年1月11日 (月)

阿波水軍と安宅

■安宅とは大きな船の意味。(以下ウキペディアより)

『信長公記』によると織田信長は、1573年に丹羽長秀に命じて佐和山にて長さ三十間(約55m)、百挺立ての大型船を建造した。これは湖上の動く城といったようなものであった。さらに、1578年には配下の武将九鬼嘉隆に命じて伊勢で6艘の大安宅船を建造させ、大阪湾に回旋し、石山合戦に投入し、毛利水軍、村上水軍に勝利した。長さ50m以上、幅10m以上を大安宅とよぶ。

安宅船の名前のルーツには諸説ある。巨大でたくさんの人員を乗せることができたので「安心できる居宅のようだ」という意味で「安宅」となった。「暴れる=あたける」から名付けられたとか、船の呼び方は造船された土地の地名からつけられるから地名だろうという説。文献上は天文年間(1532~1555年)に伊予国の河野氏配下の水軍に登場するといわれる。西瀬戸内海は水軍の先進地域であった。

安宅船は大砲を備えた戦艦。小型でスピードの出た関船が巡洋艦、関船よりさらに小型でさらに俊敏に動けた小早が駆逐艦にたとえられる。安宅船は戦闘時は帆を張るマストを収納し、数十人の漕ぎ手が漕ぐことにより、100人もが乗船できる巨体の割には、迅速に動けたといわれる。西洋の船のように竜骨はなく、外壁でもたせる箱型船で、板をかすがいと縫い釘でつなぎ合わせてつくる。遣唐使の二形船(ふたなりふね)と構造上は同じで、水密性は弱く。体当たりをするような戦闘には不向きであった。

■三好氏の近畿進出を助けた安宅氏の安宅水軍

安宅を一族の名前にもつ水軍が大阪湾で活躍した時代があった。安宅氏は紀伊国牟婁郡安宅荘より興ったといわれる。安宅氏の名は地名から。安宅氏はもともと熊野水軍で、細川氏の所領だった淡路島を拠点に、播磨灘、大阪湾、紀伊水道ににらみを利かせた。

Photo_5Photo_6沼島。海と空の間に挟まれているのが阿波徳島の山。鶴羽山より眺める。

大神子の大崎より沼島を眺める。淡路の鶴羽山はきれいな三角形。漁師さんは「淡路の高」という。

正平6年(1351年)足利将軍義詮より紀州の豪族安宅藤五郎頼藤に対し「沼島海賊を退治せよ」との令状下り、由良に城を築いた。江戸時代の享保15年(1730) に仲野安雄が編纂した地誌『淡路常盤草』には由良の古城には「浦人の伝説に、文正の頃、安宅甚五郎が居城した」と記されている。文正は1466年にわずか1年と少しだけあった元号で、1467年には応仁に元号は変わり、応仁元年に応仁の乱が起こる。この乱は10年におよび繰り広げられ、守護など旧勢力は力を失い、新戦力が台頭する戦国時代となる。

細川氏の家来であった阿波の三好氏は、阿波吉野川の経済力をバックに、細川氏を立てて畿内に進出する。安宅治興はこれに同調して淡路支配権を確立した。これにより、治興は三好長慶の弟・冬康を養子に受ける。安宅冬康は安宅水軍を継承し、大阪湾岸制圧に大きな効果があった。安宅冬康は和泉の岸和田城に進出し、兄義賢(実休)とともに長兄長慶の畿内制圧をたすけた。また摂津守に叙任し、鴨冬とも号した。和歌をたしなみ、書を能した教養人でもあった。

畿内一帯と四国の東半分は三好氏の領土となり、三好氏は足利将軍と管領細川家を傀儡にし、天下は一時三好氏のものになった。ところが三好氏の家宰である松永久秀が天下を我が物にせんと画策、様々な謀略を仕掛けて主家である三好氏の勢力を削いでいく。松永久秀は長慶の嫡子・義興(よしおき)を気取られないように暗殺。悲嘆に暮れる長慶に安宅冬康謀反の讒言をして、永禄七年(1564)5月飯盛城中で殺害させる。ほどなく三好長慶は精神に異常をきたして病没。松永久秀は生き残った三好一族を巧妙に操り目障りな将軍足利義輝をも闇討ちにしてその野望を顕にした。安宅冬康の子信康は三好三人衆に一味して活躍。やがて織田信長についたが、次第に毛利氏に傾いたため、天正9年(1581)羽柴秀吉によって滅ぼされた。

■阿波水軍(以下ウキペディアより)

始祖である佐田九郎兵衛は因幡国の出身。はじめは鎌田であった。細川氏に仕え、阿波佐田館(現在の徳島市国府町西黒田・東黒田)に三十八貫を領した。後に三好氏に仕えた。土佐泊城主。後に森に改名。松永久秀にまねかれ大和へ行き兵法を教えるが、意見が合わず阿波へ帰る。子孫によって阿南市椿泊の佐田神社に祭られている。

初代森元村は板東郡段関城(鳴門市大津町段関)及び土佐泊城(鳴門市土佐泊)城主。三好氏に仕えた。天文16年(1547年)子の村春に志摩守を名乗らせ、元村は筑前守を名乗り段関に隠居。長宗我部元親の阿波侵入に抵抗、土佐泊城を守り、降伏しなかった。天正13年(1585年)蜂須賀家政の阿波入国により、国実村(石井町)において隠居料100石を賜る。文禄3年(1594年)6月5日病没。

2代目森村春。天文11年(1542年)出生。天正13年(1585年)豊臣秀吉の四国攻めに際し、木津城(鳴門市)及び岩倉城(美馬市)攻略の功により、秀吉から四国平定後、3,000石を与える約束の朱印状を受ける。のちに18万石を得て入国した蜂須賀家政もこの朱印状に拘束された。福井庄椿泊を本拠として、福井庄に2,525石9斗升(1石は10斗)、他の5村で500石、計3,026石余を与えられた。文禄元年(1592年)秀吉の朝鮮出兵に水軍を率い朝鮮水軍と戦う。熊川一番乗り。6月2日唐島水道の海戦(唐浦海戦)で戦死。

3代目森忠村。文禄元年相続。石高2,826石。村春の子。父戦死の訃報を聞き、15歳で朝鮮出兵。唐島での戦功により家政から刀を与えられた。慶長11年(1606年)7月10日没。

4代目村重。4代目村重が森甚五兵衛家の始まり。村春の弟の村吉の長子。2代目村春の養子であったが、3代目忠村が生まれたので、分家して森甚五兵衛と称した。分家に当たり、蜂須賀家政の命により、福井村(阿南市)のうち200石、板東郡4カ村300石、計500石を分知された。文禄元年(1592年)朝鮮出兵には戦功があり、徳川家康は特に戦功を称え、呉服を授け、那西郡及び那東郡に計114石の加増を受けた。なお村重は、朝鮮から多数の捕虜を連れ帰ったことが「月峯海上録」に記載されている。慶長14年(1614年)大坂の役の戦功で徳川家康より、感状(感謝状)と陣羽織を授与された。また、藩主蜂須賀至鎮から730石の加増と感状と脇差を与えられ、森甚太夫も徳川家康と徳川秀忠から感状と呉服を授与された。寛永12年(1625年)幕府の鎖国政策により、各藩とも水軍は弱体化したが、徳島藩では参勤交代の必要のため、森甚五兵衛家とその分家の森甚太夫家とともに、藩の海上方として造船、管理、運用、乗船の訓練を司り、明治維新まで阿波水軍の地位を世襲した。

■蜂須賀家徳島藩の安宅

蜂須賀徳島藩は軍船の停泊させる港を安宅とよんだ。はじめは、現在の徳島大学の敷地にあったが、河川への土砂の流入のせいか、水深が浅くなったためか、船が多くなったためか、寛永年間に現在の安宅町の城東中学の敷地に移した。以来、徳島大学の敷地は「古安宅(ふるあたけ)」と呼ばれていた。安宅に適したところは川が三合いするところがよかったらしい。

PhotoHatisuka徳島城博物館には参勤交代のために紀伊水道を渡る阿波水軍の船団の絵がある。船体は朱塗り、蜂須賀家の家紋である卍が大きく描かれた帆をはり、船団は一列にきっちりならんでいる。そしてある地点にくるときっちり90度、向きを変える。水軍の操船技術の確かさをアピールする見せ場だったのだろう。かなり勇ましく、荘厳な感じがする。 現在の安宅町は、もともと洲であり、人が住めるようなところではなかった。安宅町の北の住吉町も、葦原で、藤五郎という無法者が粗末な小屋を立てて一人で住んでいるだけだったので「藤五郎島」と呼ばれていた。住吉と呼ばれるようになったのは、徳島城の築城の際に城山の近くにあった住吉明神、蓮花寺を移したからだという。移転されたばかりの住吉神社の鳥居には潮がかかっていたといわれている。福島川、助任川沿いに植えられた、藩政時代から続く松並木を眺めながら、福島川と沖洲川の出会う三合いへ向かう。ここが安宅のあったところで、川の岸がカギ型にくぼんでいるところが、船が出入りする場所。

Photo_2Photo_3Kotizutokusimajyouka

寛永元年(1661年)福島安宅絵図

安政6年(1859年)御山下島分絵図(安宅)

文化12年(1815年)阿波志

古地図を見ると、安宅は四角形で、四面を石垣で囲み、船は東から出入りし、西に人が出入りする門があった。その西には百間地という畑があり、その西には水師屋敷があった。百閒地は、万一の火事の時の延焼防止の機能や、いざという時の兵の集合場所となるようなスペースと考えられる。安宅と福島は徳島場を守る東の出城のような意味と機能があったと思われる。安宅の南は大工島といわれ、船大工の住む島だった。大工たちは船をつくった端材で、下駄や建具をつくていたという。その技術が後に鏡台や仏壇をつくる木工芸の町へと発展するきっかけとなった。大工島は今は大和町と呼ばれている。大工島の名残は、島のエビス神社の石灯篭に「大工島」と刻まれ残っている。古地図には安宅の南に築堤をする構想があったようであるが、蜂須賀家統治の間に実現することはできなかった。

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