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2016年1月12日 (火)

とくしまをいただきます・食後のいっぷく

●阿波晩茶

山に昔から自生している山茶の、新芽ではなく、夏まで大きく育てた一番茶を7月中頃以降に枝からしごき取り収穫する。茶畑があるわけではなく、自生している茶の木を巡る茶の道がある。新芽でない理由は、摘み取る時期が遅いことから「晩茶」という。茶葉は1枚残らずしごき取るので、昔は、ぼろ布を裂き、親指・人差し指・中指をぐるぐる巻きにして行っていた。現在は厚手の軍手をはめて行っている。指先に針金を巻く人もいる。真夏の収穫になるので、暑さを避けるため、青いビニールシートをテントのように張ったり、各人でこうもり傘を差して日差しをしのいだりしながらの作業となる。

加工に無駄がないよう、摘んだ茶葉は数日分を貯めておき、一定量が溜まると釜ゆでした後、揉捻機や舟型の手押し茶擦り器で揉捻する。手押し茶擦り器とは、底にシュロなどを敷いた細長い箱に煮た茶葉を入れ、洗濯板のような歯を刻んだ板の両側に把手をつけ、両側から人が押し合って茶葉をごりごり撚る道具である。

那賀町では揉捻機が使用される一方、小規模生産が主流の上勝町では手押し茶擦り器がまだ健在である。人手不足のため、把手の片側にモーターをつけた半機械式の茶擦り器もある。

樽で10日~3週間漬け込み、植物性乳酸菌によって嫌気発酵させる漬物茶である。新芽を使用しないのは、新芽では、発酵過程で溶けてしまうからである。発酵が終わると天日で乾燥させて製品とする。1日3回裏返して、十分乾燥させる。

漬物茶は阿波晩茶以外には、高知県大豊町の碁石茶がある。中国雲南省・ミャンマー・タイ・ラオスが接している一帯にかけた地域に「ミアン」という発酵茶がある。飲み茶より古い時代に食べ茶の文化があり、発酵茶は食べ茶文化の名残りと考えられる。稲作より古い時代、焼畑文化よりも古い時代の、ドングリや木の実・イノシシやシカ・川魚を主食とし森に依存した暮らしをしていた照葉樹林文化の産物と考えられる。

●貯蔵ミカン十万温州

勝浦町はミカンの里である。徳島市からは勝浦川に沿って、その堤防上の道を走っていく、田園風景の広がる平野は急にそり立った山となり、かなり深い渓谷となる。人家もなくなり、ちょっと心細くなったころ、急に視界が開ける。それが勝浦盆地であり、勝浦町である。

5~8月はハウスミカン、9月、10月は極早生温州、11月、12月は早生温州、そして1~4月は貯蔵ミカンと1年じゅうミカンが出荷されている。生産量は年間2,000tで、その7割の1,400tが貯蔵ミカンが占めている。

作られているミカンは「十万」とよばれる。十万温州は高糖度系ミカンのなかでも特に糖度と酸の含有量が高く、長く貯蔵が効くのが特徴。12月に収穫した後、木箱に入れられ、風通しのよい納屋で貯蔵を行い、酸が減少したのを見計らって2月~3月に出荷される。品種としては、尾張系の系統で、昭和30年ごろ、高知県香美郡山南村(現香南市)の十万可章氏の果樹園にて発見されたもので、十万氏が苗を作り販売しにきたことから普及したといわれてる。

ミカン船といえば紀伊国屋文左衛門が嵐の中、鍛冶屋のふいご祭りに配られるミカンを江戸に運び高値で売って、大金持ちになった話が有名。ふいご祭りになぜミカンなのか?諸説あるが、ミカンは酸があるので、鉄が錆びるからという理由で、鍛冶屋の庭にはミカンを植えないという。だからふいごを休ませる日に、鍛冶屋さんの庭にはないミカンを贈るというのである。紀州ミカンは各房に種があるミカンで、種なしの温州ミカンとは違うミカンと考えられる。

温州は「種なし」なので、江戸時代には「家が絶える」と敬遠され、逆に橙は「代々栄える」という意味に通じ喜ばれたという。種なしの現在の温州ミカンは、もともとあった在来種が密植栽培される中で、突然変異が起き、雄性不稔種ができたものと考えらえる。種なしなので、ミカン科の台木に、実のなる枝を接木することで栽培面積を増やす。種なしの温州ミカンが本格的に栽培され始めたのは明治以降のことと考えらえている。

ミカンの原産国は約3000万年前のインドと考えらえている。ミカンが食用として栽培されるようになったのは紀元前2200年頃の中国と考えられており、約4000年前の中国の栽培史『橘誌』には、カンキツ品種を柑、橘、橙に分け、柑18品種、橘14品種、橙5品種とし、その特性までもが詳細に書かれている。

ミカンは漢字で「蜜柑」と書く。室町時代に中国から甘いミカンが輸入され、それまで在来であった柑橘は酸味が強いものであったので、当時の人々は、中国から伝来したミカンの甘さに驚いたのではないだろうか?そこで蜜の柑橘、ミカンという名が生まれた。古くは「ミッカン」と詰まって発音されていたという。

徳島県阿南市には橘湾があり、阿波国の都への献上品の中にも「橘」の文字がある。『古事記』によると、黄泉の国から逃げ帰ったイザナギが穢れを払うために禊をしたところの名が「橘の小門の阿波岐原」というところであった。橘は常緑樹・照葉樹であり、冬でも夏でも照りのある緑の葉をもっていることから、古代の人々は橘に永遠に続く、長寿や不死の願いを込めていたのかもしれない。

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