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2015年12月30日 (水)

かもとくしま伝説と銅鐸

徳島の名は山幸彦の歌に由来するという

「沖つ鳥 鴨とく島にわがゐ寝しイモは忘れじ世のことごとに」

この鴨が渡る島「鴨とく島」から徳島と名付けられた。

このカモは何を意味しているのか?

■徳島からは銅鐸が多く出土されている。

都道府県別では4位である。

兵庫県40ヶ所56個 島根県9ヶ所54個 静岡県26ヶ所46個 徳島県29ヶ所42個 滋賀県14ヶ所41個 和歌山38ヶ所38個 愛知33ケ所36個 (全国では約500個が発見されている。)

出雲の加茂岩倉遺跡(1996年発見)から36個の銅鐸が一度に発見されるまでは、阿波は銅鐸出土数は全国一位であった。

出雲50 阿波42 紀伊38 近江36 摂津34 遠江29 三河28 讃岐20 大和19 河内18  尾張15 伊勢15 土佐11 播磨11 備前8 因幡8 伯耆8

■銅鐸は稲魂を守る

銅鐸の原型となるベルのような音の出るものは、中国の殷の時代にはすでに存在していた。朝鮮半島で小型銅鐸が発見されているが、朝鮮のものには模様や飾りがなく、日本のものとは明らかに違う。日本のものは一番古い物でも、すでに鰭がついていて、模様が施されている。弥生時代の中期ごろ(紀元前1世紀頃)のものがもっとも古い。銅鐸は1世紀末頃に急激に巨大化し、100年続くが、2世紀末になると製造されるのは近畿のみとなり、近畿ではさらに巨大化するが、3世紀になると突然つくられなくなる。

3世紀は邪馬台国卑弥呼の時代である。銅鐸は邪馬台国以前の弥生時代。魏志倭人伝に書かれている倭国大乱の時代の時代を物語る貴重な資料である。

銅鐸には謎が多い。それは酋長などの墓である墳丘墓などからは出土せず、山の中腹などで、突然発掘される。銅鐸が発見される場所は、平野が見下ろせる小高い丘などであり、弥生時代からはじまった稲作と関係が深い神具と考えられる。

銅鐸は稲の魂が宿る憑代と考えられていて、冬場はまさに、稲魂が冬眠するところで、水田で稲作を行う時は、水田が見渡せる場所にカネとして吊るして使用し、稲魂を守護する呪具であったと考えられている。日本で発達した銅鐸の鰭や流水模様は、その模様の力で稲魂を守護するためのものと考えることができる。

銅鐸は巨大化し、もはやカネとしての鳴る機能を果たさなくなって、だだ「見る銅鐸」になっていった。その原因は、お米の収量を増やすためではなかっただろうかと思う。収量を増やすには、稲魂をたくさん集めないといけない。そう考えて、単純に銅鐸を巨大化していったのではないだろうか?

弥生時代は小氷河期で、寒冷化していて、水田稲作では凶作の年も多かったのではないだろうか?そういう背景も銅鐸の巨大化への道を後押ししたと考えられる。

銅鐸は加茂岩倉遺跡のように1ヵ所から大量に出土することがあり、おそらく稲作祭祀の仕方がかわり、銅鐸が使われなくなったことにより、1ヵ所に集められて、きれいに埋葬されたのだと考えられる。2世紀と3世紀の間の古代には、なんらかの宗教改革があり、銅鐸の時代が終わり、古墳の時代へと時代が流れていった。それはムラからクニへの変化でもあっただろう。

■アジスキタカヒコネとオリオン座 そして銅鐸

『古事記』に銅鐸のことが何か記載されていないかといろいろ調べていたら、アジスキタカヒコネという名前で登場する人物(神様)が銅鐸を神格化した人という説に行きあたった。

アジスキタカヒコネは、『古事記』記載中の最大の色男オオクニヌシを父にもち、スサノオと天照大御神が天の安の河原のウケイの時にスサノオの刀から生まれた宗像三女神の長女タギリ姫を母に持つ。『古事記』にはアジスキタカヒコネは、「今いう、加毛の大神(カモノオオカミ)ぞという」という注釈がついている。大神と名乗るのは天照大御神とこのカモの大神の二柱しかない。

出雲の国譲りに先立つ話として、天上界の天つ神は、葦原の中つ国という国つ神(オオクニヌシ)が治めている国がほしくなって、はじめにアメノホヒという神をつかわせるが、3年たっても帰ってこない。そこで次にアメノワカヒコという神をつかわせるが、8年たっても報告がない。

アメノワカヒコはオオクニヌシの娘シタテルヒメと結婚して葦原の中つ国になじんでしまっていた。天つ神たちは、雉を使者として遣わし、報告するように促そうとしたが、天邪鬼がアメノワカヒコをそそのかし、雉を射殺してしまう。その矢は雉を貫いて天まで届いた。天つ神はその矢を拾うと、「アメノワカヒコが背いたならば、この矢、アメノワカヒコに当たれ」と術をかけて投げ返すと、矢はアメノワカヒコに当たって死んでしまう。夫の死を嘆くシタテルヒメの泣き声は、天まで届き、アメノワカヒコの父アメノクニタマとその妻は、息子の死を知り、葬式に参加する。その葬式にアメノワカヒコそっくりの人が現れる。それがアジスキタカヒコネであり、シタテルヒメの兄であった。

アメノワカヒコの両親は息子が生きていたと喜び、アジスキタカヒコネに抱き着くが、アジスキタカヒコネは死人と似ているとは汚らわしいと、アメノワカヒコの喪屋を切り倒し、蹴り飛ばす。シタテルヒメは「天なるや、オトタナバタの項がせる、珠のミスマル、ミスマルに、穴珠はや、御谷ふた渡らす、アジスキタカヒコネの神ぞ」と歌い兄の名を顕わした。

アメノワカヒコとアジスキタカヒコネは顔が同じということから同一神であり、秋になり冬になり生命活動が弱まったのが、春になって復活することを、アメノワカヒコの死と、アジスキタカヒコネの登場ということで表現したのではないかと考えらえる。

アジスキタカヒコネが銅鐸というのなら、銅鐸は冬の間、稲の神様が冬眠する場所と考えられる。そしてそれは冬の夜空で一番目立つ星、オリオン座であるという。オリオン座の三つ星は、和名でカラスキという。カラスキはスサノオの剣であり、三ツ星は宗像三女神にたとえられる。

北沢方邦著『古事記の宇宙論』平凡社新書2004年によると、シタテルヒメの歌の意味は、若い織姫の首かざりといわれるスバル星団、そのあとを追いかけて天に登るオリオン座は、谷を二つもわたるほど大きいと歌っている。

オリオン座のリゲルをシタテルヒメ(下で照っている)、ペテルギウスがアジスキタカヒコネ、ペテルギウスに対する右の星はその妻のアメノミカツヒメ、リゲルに対する左の星を、シタテルヒメの夫アメノワカヒコと見立てている。

■銅鐸は鳥のシャーマンが鳴らす

『古事記』によると、シタテル姫の夫のワカヒコの葬式は鳥たちが司っている。カワガリ(雁)をサギリ(使者の食事)持ちとし、サギ(鷺)をハハギ(箒)持ちとし、ソニドリ(カワセミ)をミケびと(御食人)とし、スズメ(雀)をウスメ(臼で搗く女)とし、キザシ(雉)を泣き女とし、8日8夜祀ったとある。

銅鐸の祭祀には鳥が関係していることが、奈良の遺跡の土器の線画の発見でわかってきた。

Photo_2Tori1邪馬台国かもしれないといわれている纏向遺跡の北西4㎞にある唐古鍵遺跡のさらに北北西600mにある清水風遺跡は、唐古鍵遺跡の衛星集落のひとつと考えらえている。時代は1世紀(弥生時代中期)まさに銅鐸の時代である。そこで鳥の扮装をしたシャーマンの線画が発見された。橿原考古学研究所付属博物館には、清水風遺跡の土器の線画の鳥のシャーマンを復元した模型がある。

銅鐸の神事を司るシャーマンは鳥の扮装をしていた可能性がある。

大林太良編『日本の古代13 心のなかの宇宙』中央公論社昭和62年によると、佐賀県神埼郡神崎町の川寄吉原遺跡の銅鐸型土製品には、右手に戈、左手に盾、腰に剣を下げ、頭に鳥の羽根かざりをつけたシャーマンが、舌のついた銅鐸と三本の矢が刺さったイノシシみたいな動物を背景に描かれている。

Photo_4川寄吉原遺跡は吉野ヶ里遺跡のすぐ西にある遺跡である。

アジスキタカヒコネの別名カモの大神のカモは鳥のカモかもしれない。冬鳥で稲の収穫後にやってきて、田植え前に帰っていく。

徳島では、古代、鴨族がいて、鳥のシャーマンが銅鐸の祭祀をおこなっていたのではないだろうか?

それが「鴨とく島」の歌を経て、今の徳島の地名となって伝わっているのかもしれない。

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