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2015年12月27日 (日)

かもとくしま伝説と天日鷲命

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唐古・鍵考古学ミュージアムで、写真でしか拝見していなかった鳥のシャーマンの想像復元像の実物を見てきた。

●弥生時代は「唐古・鍵時代」になっていたかもしれないほどの遺跡

日本に稲作が普及し、狩猟採集の縄文時代から、定住農耕の弥生時代が始まる。弥生時代の名の由来は、現在、東京都文京区弥生2丁目の東京大学のある敷地から見つかった貝塚から出土した土器を「弥生式土器」と名付けたことによる。

唐古・鍵遺跡は弥生時代を代表する遺跡で、この遺跡の発掘が、もう少し早ければ、弥生時代は「唐古・鍵時代」と呼ばれていたかもしれない。唐古・鍵遺跡の南東3キロには、邪馬台国かもしれないといわれている纏向遺跡がある。唐古・鍵遺跡はプレ邪馬台国かもしれない遺跡。

唐古・鍵遺跡からは、銅鐸をつくった工房跡と考えられる遺跡が発掘され、格子状に柱を配置する総柱の大型建物跡も発掘されている。近接する河内・和泉・紀伊・摂津・近江の土器が出土しており、各地と交易交流を行っていたこともわかっている。内陸奈良でありながら、海の魚の骨も見つかっている。吉備や尾張の土器も見つかっている。

唐古・鍵遺跡では、土器に絵を描く風習があり、その絵から弥生時代、銅鐸を使い稲作に関する祭祀を司るシャーマンは鳥の扮装をしていたことがわかった。

●銅鐸は稲魂をいれておく保管容器、かつ災害を防ぐカネ

徳島からは銅鐸が多く出土されている。
おそらく徳島でも鳥のシャーマンが銅鐸を鳴らしていたと思われる。

島根県(出雲)の加茂岩倉遺跡(1996年発見)から36個の銅鐸が一度に発見されるまでは、徳島県が銅鐸出土数が日本一の県であった。

出雲50 阿波41 紀伊38 近江36 摂津34 遠江29 三河28 讃岐20 大和19 河内18 淡路15

銅鐸は1世紀末頃に急激に巨大化し、100年続くが、2世紀末になると製造されるのは近畿のみとなり、近畿ではさらに巨大化するが、3世紀になると突然つくられなくなる。

3世紀は邪馬台国卑弥呼の時代である。銅鐸は邪馬台国以前の弥生時代。魏志倭人伝に書かれている倭国大乱の時代の時代を物語る貴重な資料である。

銅鐸には謎が多い。それは酋長などの墓である墳丘墓などからは出土せず、山の中腹などで、突然発掘される。銅鐸が発見される場所は、平野が見下ろせる小高い丘などであり、弥生時代からはじまった稲作と関係が深い神具と考えられる。

銅鐸は稲の魂が宿る憑代と考えられていて、冬場はまさに、稲魂が冬眠するところで、水田で稲作を行う時は、水田が見渡せる場所にカネとして吊るして使用し、稲魂を守護する呪具であったと考えられている。

銅鐸は巨大化し、もはやカネとしての鳴る機能を果たさなくなって、だだ「見る銅鐸」になっていった。その原因は、お米の収量を増やすためではなかっただろうかと思う。収量を増やすには、稲魂をたくさん集めないといけない。そう考えて、単純に銅鐸を巨大化していったのではないだろうか?

弥生時代は小氷河期で、寒冷化していて、水田稲作では凶作の年も多かったのではないだろうか?そういう背景も銅鐸の巨大化への道を後押ししたと考えられる。

銅鐸は加茂岩倉遺跡のように1ヵ所から大量に出土することがあり、おそらく稲作祭祀の仕方がかわり、銅鐸が使われなくなったことにより、1ヵ所に集められて、きれいに埋葬されたのだと考えられる。2世紀と3世紀の間の古代には、なんらかの宗教改革があり、銅鐸の時代が終わり、古墳の時代へと時代が流れていった。それはムラからクニへの変化でもあった。

●アジスキタカヒコネとオリオン座と銅鐸

『古事記』に銅鐸のことが何か記載されていないかといろいろ調べていたら、アジスキタカヒコネという名前で登場する人物が銅鐸を神格化した人という説に行きあたった。

アジスキタカヒコネは、『古事記』記載中の最大の色男オオクニヌシを父にもち、スサノオと天照大御神が天の安の河原のウケイの時にスサノオの刀から生まれた宗像三女神の長女タギリ姫を母に持つ。『古事記』にはアジスキタカヒコネは、「今いう、加毛の大神(カモノオオカミ)ぞという」という注釈がついている。大神と名乗るのは天照大御神とこのカモの大神の二柱しかない。

出雲の国譲りに先立つ話として、天上界の天つ神は、葦原の中つ国という国つ神(オオクニヌシ)が治めている国がほしくなって、はじめにアメノホヒという神をつかわせるが、3年たっても帰ってこない。そこで次にアメノワカヒコという神をつかわせるが、8年たっても報告がない。

アメノワカヒコはオオクニヌシの娘シタテルヒメと結婚して葦原の中つ国になじんでしまっていた。天つ神たちは、雉を使者として遣わし、報告するように促そうとしたが、天邪鬼がアメノワカヒコをそそのかし、雉を射殺してしまう。その矢は雉を貫いて天まで届いた。天つ神はその矢を拾うと、「アメノワカヒコが背いたならば、この矢、アメノワカヒコに当たれ」と術をかけて投げ返すと、矢はアメノワカヒコに当たって死んでしまう。夫の死を嘆くシタテルヒメの泣き声は、天まで届き、アメノワカヒコの父アメノクニタマとその妻は、息子の死を知り、葬式に参加する。その葬式にアメノワカヒコそっくりの人が現れる。それがアジスキタカヒコネであり、シタテルヒメの兄であった。

アメノワカヒコの両親は息子が生きていたと喜び、アジスキタカヒコネに抱き着くが、アジスキタカヒコネは死人と似ているとは汚らわしいと、アメノワカヒコの喪屋を切り倒し、蹴り飛ばす。シタテルヒメは「天なるや、オトタナバタの項がせる、珠のミスマル、ミスマルに、穴珠はや、御谷ふた渡らす、アジスキタカヒコネの神ぞ」と歌い兄の名を顕わした。

アメノワカヒコとアジスキタカヒコネは顔が同じということから同一神であり、秋になり冬になり生命活動が弱まったのが、春になって復活することを、アメノワカヒコの死と、アジスキタカヒコネの登場ということで表現したのではないかと考えらえる。

アジスキタカヒコネが銅鐸というのなら、銅鐸は冬の間、稲の神様が冬眠する場所と考えられる。

北沢方邦著『古事記の宇宙論』平凡社新書2004年によると、シタテルヒメの歌の意味は、若い織姫の首かざりといわれるスバル星団、そのあとを追いかけて天に登るオリオン座は、谷を二つもわたるほど大きいと歌っている。

オリオン座のリゲルをシタテルヒメ(下で照っている)、ペテルギウスがアジスキタカヒコネ、ペテルギウスに対する右の星はその妻のアメノミカツヒメ、リゲルに対する左の星を、シタテルヒメの夫アメノワカヒコと見立てている。

『古事記』によると、ワカヒコの葬式は鳥たちが司っている。カワガリ(雁)をサギリ(使者の食事)持ちとし、サギ(鷺)をハハギ(箒)持ちとし、ソニドリ(カワセミ)をミケびと(御食人)とし、スズメ(雀)をウスメ(臼で搗く女)とし、キザシ(雉)を泣き女とし、8日8夜祀ったとある。

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邪馬台国かもしれないといわれている纏向遺跡の北西3キロにある唐古鍵遺跡のさらに北北西600mにある清水風遺跡は、唐古・鍵遺跡の衛星集落のひとつと考えらえている。時代は1世紀(弥生時代中期)まさに銅鐸の時代である。そこで鳥の扮装をしたシャーマンの線画が発見された。

銅鐸の神事を司るシャーマンは鳥の扮装をしていた。

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大林太良編『日本の古代13心のなかの宇宙』中央公論社昭和62年によると、佐賀県神埼郡神崎町の川寄吉原遺跡の銅鐸型土製品には、右手に戈、左手に盾、腰に剣を下げ、頭に鳥の羽根かざりをつけたシャーマンが、舌のついた銅鐸と三本の矢が刺さったイノシシみたいな動物を背景に描かれている。川寄吉原遺跡は吉野ヶ里遺跡のすぐ西にある遺跡である。

●スサノオの3女神とアマテラスの5王子

アジスキタカヒコネの別名カモの大神のカモは鳥のカモかもしれない。冬鳥で稲の収穫後にやってきて、田植え前に帰っていく。

再び、北沢方邦著『古事記の宇宙論』平凡社新書2004年によると、オリオン座の三ツ星は「カラスキ」と呼ばれ、それはスサノオの剣で、シベリア高気圧が巻き起こす冬の暴風がやって来る北西を差している。オリオン座の三ツ星は南中するとき、北西を差し、この冬の嵐を防いでいると見立てている。

カラスキはスサノオの剣で、その三ツ星は天の安河原のウケイによってスサノオの剣から生まれた3人の娘、タキリ姫、タキツ姫、サヨリ姫である。この三女神は「たきりたつ」または「ほとばしる」という水の威力を表し、サヨリは霊力がそこに宿る意味。

福岡県宗像市の宗像大社は、海上50キロ離れた沖ノ島(タキリ)、十数キロの中津島(サヨリ)、海岸の辺津宮(タキツ)の3つが正確に北西角に並んでいる。広島県の安芸の宮島の厳島神社も、本殿、拝殿、舞台、海中の鳥居の線が北西角に並んでいる。大分県の宇佐八幡神社も本宮と奥宮を結ぶ線が北西角にある。

江の島の辺津宮と中津宮が北西角であり、山頂の奥津宮と前二社は正三角形になっている。これは暴風雨を象徴する三つ巴紋を示している。

大阪の住吉神社は三つ星を祀っている。この三つの星は海の上の方、中の方、底の方の3つの神でもある。これはオリオン座が東の水平線からのぼるとき、三つ星が立てに並んでひとつづつ、水平線から昇ってくることを表している。

天の安河原のウケイでアマテラスの珠から生まれた5人の王子は稲魂に関係する。オシホミミは稲穂が長く垂れた様子、ホノニノギは穂が賑々しい様子、ホヒは稲の霊の意味、アメノヒコネは天の日子(太陽の子)である「稲の根」の意味。クマノクスヒは「隅の不思議な霊」という意味。アマテラスの5人の王子はスバル星団に見立てられ、スバル星団の形が魂を象徴する勾玉の形の原型となったと考えられる。スバル星団を追いかけて、オリオン座が昇ってくる。冬の代表的な星座である。

スサノオの3女神は稲を育てる水と風を表し、アマテラスの5王子は稲の霊に関係している。

鳥のシャーマンは鉾と盾を持って、模擬戦闘のような踊りを舞ったと考えられている。これとスサノオの3女神は関係しているかもしれない。水と風は恵みをもたらすと共に、禍ももたらす。稲を育てる水と風。台風などの災害、冬の寒波をもたらす水と風。この善悪の2面を模擬戦闘によって戦わせ、善が勝ち、悪を抑えるという呪術的な舞なのかもしれない。

稲魂は男神だから、女性のシャーマンが祀り、稲を育てる水と風の神様は女神だから、男性のシャーマンが祀るということではないかと考えることができる。

●アマノホヒと稲穂をつかんだ鷲

アマテラスがはじめに出雲のオオクニヌシの元へ遣わしたのは5王子のひとり、アメノホヒであった。アメノホヒはオオクニヌシに懐柔されてしまい、3年たっても報告さえなかった。

アメノホヒの子どもはアメノタケヒラトリ(別名・天鳥舟命、武夷鳥命=鷲大明神)で、辰野金吾氏が設計した建設当時の姿で復元された東京駅の八角ドームには、その各角に「稲穂を掴んだ鷲」の像がある。このモチーフの元になったのが、アメノホヒの子どもタケヒラトリである。

アメノホヒは稲の霊の神であり、その子どもが稲穂を掴んで飛んできた鷲で。鷲が全国に稲穂を配り、稲作りを広めたのである。

銅鐸がたくさん出土している徳島県。それを開拓したのはアメノフトタマ(天太玉命)の子どもアメノヒワシ(天日鷲命)といわれている。アメノフトタマとアメノヒワシの関係は、アメノホヒとタケヒラトリと似ている。太い玉=稲霊。子どもは両方とも鷲。

鳥が稲霊を運んでくる。

 

 

 

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