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2015年12月29日 (火)

かもとくしま伝説と井戸寺

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井戸寺の門前の柴犬は「さくら」という女の子。

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昭和30年の昭和の大合併にて南井上村が国府町になることがきまり、その時に作成されたのが『南井上村誌』

その冒頭で、井戸寺の井戸および「井上」の地名の由来が語られている。

我が南井上の地は昔の井上(ゐのべ)郷の中心に位置し海神の住み給う処であった。神代神話にあらわれた山幸彦、海幸彦が釣針の争いから、山幸彦は塩椎翁(航海の神)の教えによって海を渡り釣針を求めて海神の宮に行かれた。その地は当時の井上郷、我が南井上村であった。古事記に「魚鱗(うろこ)の如く造れる宮、それは綿津見神(海神)の宮なり、其の神の御門に至りましなば傍の井の上に湯津香木あらむ」とあり。井門(いど)の地名もここから生まれたもので、井門は井戸に転化したものと称されている。山幸彦は塩椎翁の申す通り海神の宮の門の傍の井の上にある桂の樹上に上られて待って居られると、海神の侍女は器を以て水を汲みに来り、井内の静かな水面を眺めると思い掛けぬ高貴な神様の御姿がうつっている。この侍女の驚きに対して山幸彦は清水を所望されたから侍女が器に汲んで差上げると、飲給わず、首飾りの玉をといて口中に含まれ器中に落し入れられた。

国府町和田に王子神社、新居村西崎に雨降神社それぞれ豊玉姫を祀り、花園諏訪神社は海神を祀る天佐自能和氣宮よりの転なりと伝えらるあり、又井戸寺境内に御姿の井戸あり、弘法大師の創建とも伝えらるるも、古事を追慕さるる大師が由緒深き霊井に御姿をうつされ以て俗人共に神代ながらの神聖さ正しさを保てと訓えられたものかも知れない。

井戸寺は記述の如く天武天皇白鳳二年に御願によって建立されたもので、阿波国最古の寺である。建立当時の本尊は上宮太子(聖徳太子)の彫刻された十二上願如来で、其の御胸間に毘首羯磨(びしゅかつま)作の薬師如来が御坐された。又脇士の日光月光は行基菩薩が刻む所であった。四大天王、不動明王、十一面観世音は弘法大師の厳作を安置され、七堂伽藍、輪奐の美を誇ったが兵火の為に一部を焼かれ、嘉永年間桜間城にあった阿波国の豪族田口成良これを修理した。

これから百六十年余を経た天文十二年、僧芥誠は勧進となって井戸寺の復興に当たった。塙保己一が著した群書類従にはこの当時の勧進帳が収録されている。天保取調書には辨才天社に復興に当り先に埋め置いた多くの仏像を掘出したと記されている。

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①なぜ?井戸寺は天武天皇の勅願なのか?天武天皇と井戸寺のある井戸郷はどのような関わりがあるのか?

天武天皇は壬申の乱に勝利して天皇となった大海人皇子。壬申の乱で大海人皇子を勝利に導いたのは、海洋民の血を受け継ぐ尾張氏といわれる。

天武天皇の諡号は天渟中原瀛真人天皇(あまのぬなはらおきのまひとのすめらみこと)。

「あめのぬな」は海で採れるヒスイの玉の意味で、これも海洋民と関係があるような名前。

古事記の山幸彦が、亡くした兄の釣り針を探し求めてはるばるやってきた海王神が住む「鱗のごとく造れる宮」が、井戸郷にあったということなのだろうか?

天武天皇の勅願と伝えられているお寺は

天武1年:桜本坊:奈良県吉野郡吉野町(役行者の高弟日雄角乗)

天武2年:慈眼院:大阪府泉佐野市日根野(隣接する日根神社の神宮寺)

天武2年:石垣山観音寺:福岡県久留米市田主丸町

天武3年:井戸寺(妙照寺):徳島県徳島市国府町

白鳳年間:童学寺:徳島県名西郡石井町(北の石井廃寺跡が当寺の前身)

天武3年:聖神社:大阪府和泉市王子町(渡来人、信太首(しのだのおびと)が聖大神を祀った)

天武3年:石垣山観音寺:福岡県久留米市田主丸町

天武5年:矢田山金剛山寺:奈良県大和郡山市矢田(智通により開基)

天武6年:弘川寺:奈良県南河内郡河南町(役行者によって建立)

天武8年:永勝寺:福岡県久留米市山本町(薬師寺を建立の勅願所)

天武9年:往生院:大阪府泉南市信達牧野(三蔵法師の弟子である道昭による)

天武9年:室生寺:奈良県宇陀市室生区(賢璟により開基)

天武9年:薬師寺:奈良県橿原市城殿町(鸕野皇女病気平癒のため創建)

天武9年:勝持寺:京都市西京区大原野(神変大菩薩、役の行者が創建)

朱鳥1年:長谷寺:奈良県桜井市初瀬(道明・天武天皇の病気平癒を祈願)

②なぜ?聖徳太子なのか?

徳島市南庄町2丁目の眉山山麓にある「峯のお薬師さん」と親しまれている法谷寺の縁起にも、聖徳太子が出てくる。

『救世山峯薬師縁起』

古え小治田宮天皇の御宇、聖徳太子当山の対岸気延庄、上宮にて詔りし、「当域南北に枕し、東に向いて開く正に浄瑠璃境の域也。前尾の峰を救世山と称し、邦国の守護を祈願せん」と、秦河勝に命じ、以乃山馬峰に醫王善逝薬師如来を作らしめ、救世山峯薬師を開山す。後々仏教を志す者必ずこの霊地を巡礼す。弘法大師峯薬師に修法、真言密教を興す。嵯峨天皇の信を得、当山を真言密教三密修験の根本道場とし、救世山大乗院遍照寺を建立併せて、東の峰に金剛光寺を建立、峯薬師を中心に遍照金剛の霊地となす。

小治田宮天皇は推古天皇。法谷寺の西には賀茂神社。賀茂氏は八咫烏こと賀茂建角身命を始祖とする古い氏族。そして徳島市の鮎喰川の両岸は古代「加茂」という地名であった。京都の賀茂神社は秦氏の本拠地で、秦河勝とつながる。法谷寺の東には産八幡神社がある。産は「うみ」とよみ、もともとは海であったと思われる。八幡神社は応神天皇を祀るが、この産八幡神社には応神天皇がここで生まれたという伝説がある。

聖徳太子は滅ぼした物部氏の供養のために、全国十一峰にお寺を立てたという。その一つがこの「峯のお薬師さん」だという。この地は物部氏のゆかりの場所だったのだろうか?

伊予国風土記逸文によると、推古4年、596年、22歳の聖徳太子が病気治療のために道後温泉にやってきていたという。聖徳太子は病気治療のために四国で療養していたのかもしれない。

③井戸寺の井戸と「徳島」の地名の由来のなぞ。

徳島と呼ばれ始めたのは、1585年(天正13年)に阿波国に入国した蜂須賀家政が、渭の山城を居城として改修し、地名を「徳島」と改名したことによる。お城の東にすでに「福島」があったので、福に対して徳としたという説もあるが、徳島は山幸彦が歌ったトヨタマヒメに贈った歌に由来するという説もある。徳島城の城内には龍神社が祀られていたことが古い絵地図に記されている。

徳島は『古事記』に登場する山幸彦の妻に送った歌に由来しているといわれている。山幸彦ことホホデミ(ホヲリ)は、「絶対に覗いてはいけません」と言われていたのに、妻トヨタマヒメが海神の姿(ワニの姿)になって出産している場を覗いてしまい。これが元で別れることとなった。この今生の別れに交わした歌に、「徳島」は由来するという。

トヨタマヒメは生まれた子どもウガヤフキアエズの養育のために妹タマヨリヒメを差し向け、歌を贈った。

「赤玉は緒さえ光れど白玉の君が装ひし貴くありけり」

ここにその夫、答えて

「沖つ鳥 鴨とく島にわがゐ寝しイモは忘れじ世のことごとに」

この鴨が渡る島「鴨とく島」から徳島と名付けられた。蜂須賀氏が入城したときに、すでに渭の山城にはトヨタマヒメを祀る祠があったので、トヨタマヒメにちなんで「徳島」となったという。

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