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2015年12月16日 (水)

かつての津田島の地図

Tudayama11TudayamaTudayama222勝浦川河口から眺めた津田山。

大崎ののろし場から眺めた津田山。

真南から見た津田山。手前は勝浦川。

国衙領の南助任保と津田島が興福寺回廊造営料所にあてられたことを契機に、在京の中級貴族大江泰兼は、保の荘園化を推進し、1204年(元久1)に春日社を本家、大江泰兼を領家、在地領主粟田重政らを荘官にする富田荘が成立する。

津田島の名は、建仁4年(1204年)左弁官下文の南助任保、津田島立券に関わる「四至」に登場する。「四至」は保、庄、荘の境界のことで、いびつな形の土地もすべて四至で示した。文政5年、戸数257軒、人口1765人(ただし2歳以上)

Photo_2←徳島県立博物館の展示。中世の荘園・公領の図。

↓昭和初期の津田。

園瀬川側の新浜には塩田が広がる。現在は末広道路(現在の東環状線)によって失われているが、津田山は3つの頂上があったようだ。現在は新浜本町とよばれているかつての南佐古には、清水谷、岩滝などの地名があり、湧水があったのではないだろうか?千切れ山の周辺には蛤水とよばれる良質の水が湧く井戸が、かつてあった。現在は南岸から突き出ている海と川がせめぎ合ってできる河口の砂丘である象の鼻は、北岸から南へ伸びている。津田コミュニティ協議会のHPより転写(元は中学校の50年史より)

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