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2015年12月 8日 (火)

津田八幡神社界隈図会

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■津田八幡神社
奈良時代には春日領であった。この八幡神社は藩主参勤交代の海上安全を祈り、今から200年前(1705年)蜂須賀綱短公の時に社殿が再建なると伝わる。7月25日、10月26日の大祭は、多くの露天商が立ち並び今も賑やかですが、昭和11年ごろは好漁が続きとても賑やかなお祭りだったようである。学校も全休となり、5台の屋台が町中をねり歩き、当時はいなせな格好の担ぎ手も多く「ヨイヤー、チョウサジャーチョウサジャー」の声太鼓の音が鳴り響いたという。

今は慰霊塔が建っている所に、かつて観音堂があり、明治6年、現在の津田小学校になる「化成校」が発足し、明治37年には絵馬堂も使って校舎にしていた。明治39年まで教育の場となっていた。

■「させ」を高く放りあげる
津田地区ではかつて、秋祭りに「させ」と呼ばれる屋台に子どもたちが乗り、太鼓をたたいて練り歩いた。屋台は五つの地区に1台ずつあり、それぞれ50人ほどが担ぐ。太鼓に合わせる掛け声も「鶴と亀舞えよ勇め」「晴れ相撲の勝てよ負けな」など地区ごとに違っていて、その掛け声とともに高さを競うように放り投げる。飯原一夫氏(徳島文理大教授)は著書『徳島むかしむかし』(1967年発行)の中で、津田の「させ」についての露天商の話を紹介している。それによると、金刀比羅神社(徳島市勢見町)の祭りに市内各地から屋台が集まり、どこが一番高く放り上げるか競争になっていたようで、「さすが漁場で気が荒い。津田がなんというても一番元気で、助任や佐古からも来たが津田には勝てなんだ」と記している。「津田祭り太鼓」は昭和30年代後半に途絶えたが、2001年に復活し、夏祭りと10月の秋祭りに披露されている。2009年に住民ら約20人が「津田勇屋台復活の会」を結成。昔と同じ型の屋台1台を新たに製作し、昨年の秋祭りでは担いで、子どもたちを乗せて練り歩いた。

■津田山城
津田城の築城時期は不明であるが、城主は桑村隼人であったという。桑村氏は日奉氏の一族で、隼人は三好義賢の命で堺で武器を購入しており、帰路海賊に襲われ討死したといわれている。津田八幡神社と、背後の山が城址であり、津田八幡神社がある場所が、根小屋であり、城主の常の居館であったと考えられる。背後の山が詰め城で、山頂が主郭となっており、北東から南・南西にかけて平場を置いている。なお、城跡は照山公園として開放されている。

帝國博物学協会さんのHP

■津田のコンニャク橋
明治26年、斎津村大字津田浦村字乾開の塚井菊太郎が賃取り橋を架設した。斎津村は塚井に年間450円の運上金(税)を課した。この橋は儲かっていたので、明治40年には運上金が700円に増額された。南半分がこんにゃく橋(浮橋)になっており、台風のときには避難させていた。渡橋賃1人1銭・馬車3銭。1日あたり13円の収入があったという。大正15年起工、昭和2年開通の津田橋は建設当時、徳島市一番の長橋だった。現在の橋は4代目。

■津田港
発展したのは藩政時代に入ってから、江戸時代の弘化・嘉永の年間には阿波と上方との間に、二百石船が出入りするようになり。阿波藩としても藩の表玄関として、津田河口御番所が設けられて、常時4名の役人がつめて、城下に出入りの舟の監視にあたっていた。出船は阿波特産の塩、藍、砂糖、煙草、反物、玄米などあり、その量は莫大な物でした。又、入船に関しては、その船の船籍地の庄屋の発行した手形により、行き先積荷乗船者の人数、又職業まで厳しく検査され手形の提出があったようです。出入りの船は関西のみならず、関東からの出入りが多く、港が繁栄すればするほど、港の土砂の移動、堆積も激しく、港の修復が必要となり築港が迫られてきます。時は幕末藩政末期の混乱時代、申請して代官所よりの許可は下りたものの、藩としても財力なく助成金の一切もありません。この時に6名の世話人が立ち上がり、資金を工面し、住民達の労力によって、慶応元年の丑年に完成しました。築港の世話人6名の名が刻まれた碑が建っている。十四軒屋次良兵衛・大和屋虎蔵・湊屋茂兵衛・濱屋庄作・團弥助・大和屋与一兵衛の6人のうち、大和屋さんは盆唄に「鯛になりたや鳴門の鯛に、阿波の与一兵衛さんに釣られたい」と唄われている。回船問屋の数は40数軒あり、荷物を預かる白壁の土蔵が立ち並んでいた。「トウカイ」と呼ばれる大型帆船が沖に碇泊していた。蛭子神社「おいべっさん」を中心に盛り場ができ、賑わっていた。浄るりなど遊芸も盛んだった。明治13年の津田港からの積み出し記録:藍玉25万俵・砂糖4万6千俵・たばこ1万3千箱・反物30万反・玄米20万俵。関東売藍商と契約を結んだ大型船だけでも65隻。船舶の出入り414トンは徳島県の3分の2にあたる。る。

石碑は、1934(昭和9)年の高潮で倒れ、海の中に沈み。20年間放置されたままになっていたが、1955年、当時の青年団が中心になって、建て直したという。

■バッチ網漁発祥の地
津田出身の大和幾次郎によって創案されたバッチ綱漁法は第二次世界大戦後、全国的に広まった。バッチ網は2隻の船で網を引く漁法で、バッチとはズボンのこと。ズボンの裾を2隻の船で引くとズボンの腰のあたりに魚が溜まる。イワシ、アジ、イカナゴ、ちりめんなどを獲る。

■錨のモニュメント
津田八幡神社に、金色に輝くスクリュー(直径約2メートル)がある。宝栄海運(津田本町、江口浩史社長)の先代社長、修一さん(故人)が1991年に奉納した。碑文には「漁業と海運で栄えた町 津田を見直すとともに 海を大切にしてほしい 海を愛し続けてほしい との願いと海上安全の祈りを込めて・・・」と記されている。

津田小学校の玄関近くには錨(高さ約2メートル、最大幅約1・2メートル)のモニュメントが置かれている。林海運(津田町)の林秀俊社長が母校である同校の120周年記念として1992年に寄贈した。林社長は「海の町として栄えてきたことを末永く伝えるとともに、子どもたちにたくましく育ってほしいとの思いを込めた」と語る。

津田小学校の校章は錨に桜が添えられる。百年史では「明治32、33年ごろに制定」とある。校歌には「海をかたどるいかりにも匂い出でたる桜花」とある。

■津田の立石
全国68カ国の民謡・民謡的歌謡を収録し、各国の人情、伝説を紹介している『山家鳥虫歌』明和9年 大阪神崎屋清兵衛刊の阿波の国の冒頭は

あたけ甚兵衛様蔦山通い 蔦の立石星月夜

「あたけ」は寛永期に常三島から安宅に移された阿波水軍の水夫屋敷であり、阿波水軍を率いる森家は2家あり、それぞれ代々森甚五兵衛・森甚太夫を名乗った。「甚」の字は阿波水軍の総帥を意味する。水軍の大将は星月夜に津田港の盛り場で遊んだのだろうか?星や月を頼りに海をゆく海の民は、何か宗教的または呪術的な意味で津田の立石をおとづれていたのだろうか?立石は安政の大地震で海中に没し、今は失われているが、いろいろな絵地図に記載されている。立石は港の目印であったとともに、浦民の自然信仰の対象であったと思われる。立石がかつてあったところには、その後、水神として「みつはのめ」神が祭られている。

■穴観音
大昔は貝塚だった。今は満面に笑みをたたえたふくよかな表情の石仏が安置されている。その台座には、江戸末期の天保14年5月18日當浦女人講(とううらにょにんこう)の文宇が刻まれている。津田浦漁師のおかみさん達が、海で働くわが主や男達の安全を祈願し安置されたのが観音像で穴観音と呼ばれている。地元津田町だけでなく、近くの多くの人々から慣れ親しまれ、特に「女人信仰」の象徴として崇められてきた。
伝説『阿波の狸合戦』の勇将、六右衛門狸の本拠いわゆる根城がここにあり。小松島の金長狸が、津田の六右衛門狸のもとで修行し、覚えがとても早かったので、修行が終わって返すことを惜しみ、娘の鹿の子姫の婿養子にしてこの穴観音にひきとめようとしたが、断られたため、金長と六右衛門の間で合戦が繰り広げられ、六右衛門は金長に殺されてしまい、金長もその時の傷でまもなく死亡してしまったというお話。

■入船地蔵
今から約170年前の江戸時代後期に勝浦川河川沿いに設置されていたものだという。当時、勝浦川の河口にあたる現在の大原町、論田町、前原町は自然の恵みをうけ、阪神方面より海上輸送にて搬入される肥料の中継地区として重視されていた。搬入された肥料は百石積帆船より問取船へと中積され、勝浦や打樋を漕ぎあがっていました。その頃は川幅も狭く、施肥の夏期には百数十隻がひしめきあい、無理な運航、取引が一隻満載積み取り単位で行われることによる過剰積載のため衝突、沈没等事故が絶えなかったという。そのような頃、津田の漁師の網に偶然にもお地蔵がかかり、事故防止と立ち寄る帆船の安全な航行を祈願し、「入船地蔵」と名付けられ、設置された。地域の方の話しでは、昭和63年にこのお地蔵にダンプカーが突っ込み、破損。修復の過程で「島田嘉平」氏が勝浦川の大改修工事に伴い、現時点に移されたということが判明したとのこと。

■津田八幡神社のお旅所
秋の祭りに、津田八幡神社の御神体が、お旅所に行くことを渡御といいます。祭りの行列は、まづ獅子舞にはじまり、つづいて悪霊払いの天狗さん、おみこし、ダンジリ、サセ(サッセ)が暴れながら行進する勇ましい姿が町衆の心意気であったようです。しかし、この渡御は、大正6~7年まで津田本町筋(現剣道120号線)で行われていましたが、諸般の事情により、大正8年与茂田に移されました。道路事情の悪い時代の渡御は、馬の背に御神体を乗せ、そのあとに、関係者がお供したものです。昭和初年まで、この祭りと並行して、与茂田で競馬があり、ともに津田の名物でした。その馬場の両側に「ポプラ」並木がありましたが、惜しくも昭和9年の室戸台風により、全て横倒しになってしまいました。このように町民が一丸となった津田の祭りも、太平洋戦争を境に消えていったのは、町民の知るところであります。楠の下に、大正6年に建立された競馬の石碑が、昔を物語っています。

■津田海岸の藍砂
寛永2年 藍方が置かれる。寛文13年に一時禁止されるが、藍師の強い要求によってすぐに解除される。藍玉100匁につき70匁もの砂が入れられた。砂を入れるのは変質防止・損傷防止のためで、安永2年に根井・弁天・津田浜から採取されることがきまった。上藍には根井の砂、下藍には津田の砂を入れる。地引き網漁と砂の採取との間でトラブルが多く、解決策として波打ち際から50間隔てて採取することとした。明治20年に藍砂は禁止される。

■津田海水浴場あと、現在みどり公園
昭和7年に産業道路が開通し、続いて関連道路の整備が行われ、津田海岸が海浜公園として整備され、昭和11年に「津田海浜公園」と名付けられる。市により緑地帯が整備され、昭和12年農業学校生の手でクロマツ3万4千が植林される。海水浴場の運営は地元婦人会と青年団員が担い。海岸線いっぱいに天幕とヨシズの店が出、宝探し・黒ん坊大会・砂彫刻などのイベントもあった。昭和30年代、海水浴に来た人は津田が1万人、沖洲が4千人。昭和43年7月6日が最後の海開となる。その後、木工団地の進出により埋め立てられる。

■蜂須賀地
昭和10年、小作人一同が市に蜂須賀家の土地の譲受けを陳情し、代表が上京し懇願することにより、蜂須賀家が所有していた田7町4畝・畑20町17畝・宅地8800坪・雑種地21町35畝の土地、合わせて50町歩を小作人の自立のためにと、87世帯に分割償還で譲与した。土地交渉の際の、蜂須賀家側の交渉人が顧問の青木盤雄校翁で、この青木翁の慈悲と恩恵に対して心からの感謝の意を込め小作人達が、後生に伝えようと昭和11年9月に立てた碑が残っている。原野の広さは6万坪。海浜公園にする約束で贈与され松林の後ろの堤防から渚まで200メートルもあったそうですが、南海地震などで地盤が沈み、砂浜は半分の3万坪にまで、減少したそうです。それでも、昭和30年代後半には、一日3万人もの海水浴客で賑わったそうです。41年から木材団地にするため、埋め立て工事が始まり、45年には完全に姿を消してしまいました。

■砲台跡
黒船来航により、徳島藩も神奈川沿岸警備のために597人が出勤している。徳島の玄関である津田浦にも砲台の建設の必要が生じ、文久3年に測量がはじまり、元治元年完成する。砲台は海岸より3間半(6m)海に突き出していたという。

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