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2015年12月 5日 (土)

小松島の港の歴史

■小松島のまちの誕生

『総合学術調査報告 小松島 郷土研究発表会紀要 第14号』昭和44年発行 阿波学会 港町小松島の形成過程 史学班 泉康弘より引用

小松島というまちは、戦国時代が終わり、蜂須賀家の阿波入国と、それに伴う徳島の城下町の造営の中で、小松島という町はいっしょにつくられていった。徳島城下の衛星郷といえる。それまでの人のくらしは山辺中心であり、海岸部にはあまり人は住んでいなかった。

勝浦川は井ノ口から、今の神田瀬川へ流れ、小松島の沖積平野を形成した。勝浦川が論田・大原方向に今の流れに固定したのは、17世紀の蜂須賀藩の築堤事業のためである。

小松島は蜂須賀時代に直轄地とされ、蜂須賀家の庇護を受けた藍商人が住まわされた。藍・タバコ・絹・塩などの生産を背景に、それを運搬する水運に恵まれた徳島は、明治のはじめ、日本で10番目の人口を誇る大都市となる。その衛星都市として小松島は発展してきた。港の開発の歴史は明治の後期からであり、港開発の初期の資金源も豪商と成長していた藍商人によるものある。江戸時代の小松島は徳島の玄関港ではなかった。

元和4年正月朔日「23ヶ条御壁書」と「裏書」の規定によって兵農分離を進める中で、家臣団に編入できないが、かといって放置できない者、または自ら望んだものに小松島を指定し移住させた。その中からは多くの富豪というべき藍商人が生まれる。しかし小松島では藍の製造や取り引きはなく。小松島には藍商人の米蔵があった。小松島は徳島を中心とする蜂須賀藩の城下計画の付属し一部となっていた。芝山(日ノ峰)・小松島浦・日開野村・中郷村は藩の直轄地とされた。

人々の暮らしは田浦・新居見・芝生・田野・中田などの山辺の地であり、海岸に近い小松島浦はほとんど人が住める場所ではなかった。

『阿府志』著者赤堀良亮は小松島の基盤をつくったとして寺沢氏の功績を称えている。「按ズルニ寺沢氏一人ノ力ニ依テ小松島浦寺社共千軒余ヲ改起シ其余代々エノ勤功尤モ良民ト謂フ可キカナ」寺沢氏は蜂須賀家の阿波入国を慕って播州高砂から移住し、初代家政の命により手束を寺沢に改名し、城下の新シ町に居を定めた。初代寺沢六右エ門(宋斎)は山内松軒と共に、小松島浦・日開野村・中郷村の代官を命じられ、山内が免じられた後、村瀬太兵衛と元和初年から寛永5年まで13年間勤める。地蔵寺の建設、勝浦川の分一銀(元和7年2貫)小松島の地下役銀、那賀川筋の分一銀(寛永5年150貫)の徴収を行ない藩に上納し、勝浦川上流の殿河内から杉檜などの藩の用材を伐り出し水運で輸送する任務を積極的に行い小松島での地位を確固たるものにしていく。

寺院諸法度により、檀家制度が整えられ、小松島浦一帯は地蔵寺の檀家になった。墓石の最も古いものは寛永10年代、過去帳の調査によって諸家の初代や元祖の死亡は寛永12年から正保頃までに確認できる。同じく過去帳による屋号の数 延宝に2家 →元禄に4家 →宝永に2家 →正徳・享保に17家。元禄時代に小松島浦が在郷町化したと考えられる。延宝から天保の間に記載される屋号は95。

文政7年の関東売仲間と阿波・兵庫間の運送特約に加盟した浦々の船。165艘の内訳 津田浦65艘・徳島27艘・別宮川口44艘・撫養川口25艘・小松島浦2艘。藍玉には元根井沖で採取された海砂が入れられることになった。藍砂は寛永10年に専売となり、13軒の問屋が取り扱った。藍砂は現在の小松島石油所付近で選別されて、徳島の出来島付近に設置された砂置場へ30石積の船で積出される。

明治12年頃「根井港、本村東ニアリ東西2丁15間、南北3丁深サ干潮2尺ヨリ1丈ニ至ル。東風西風ニ宜ク南風ニヨカラズ。暗礁ナク1年出入船凡ソ5000艘」蒸気船(100t以上)1艘・日本形船166艘(50石未満29艘・50~200石6艘・漁船130艘・遊船1艘)小松島の根井は漁港であったことがわかる。一方津田港は「東西7丁南北8丁干潮深6尺浅3尺余、海水総テ遠浅ニシテ300石積以上ノ船舶ハ満潮ヲ待タザレバ出入スルヲ得ズ。若シ東南風烈シキトキハ出入最困難ナリ。汽船碇泊ニ便ナラズ、多ク津田川口ニ碇泊ス、近来北海道物産ヲ輸送スル船舶ハ多ク板野郡別宮川口ニ入ル」と津田港がメインの港であったことが記録されている。徳島県の他県との貿易は、輸出品:藍玉・?(すくも)・砂糖・塩。輸入品:米・肥料(藍作のための肥料は北海道から直輸入されていた。)平均1000石積以上の船で60余隻 9月から10月下旬まで別宮川口に碇泊し、そこから小船に分載され別宮川口の紙屋新田でハシケに移載されて徳島船場に陸揚げされた。この本船の多くは越前・加賀の船で。地元の船は1~2隻だった。

■阿波国共同汽船会社
当時、大阪-徳島間の海運は大阪商船の独占状態にあったため運賃が高騰。明治17年設立の大阪商船による藍玉輸送運賃の値上げに対抗して藍商人が出資してできた会社。津田港は毎年、浚渫の必要があり、貨客の増加をみて、円滑な輸送が可能とはいえず、それまでは避難のための港ぐらいの意味しかなかった小松島港が天然の良港として見直された。明治26年当時の取締役は9人には、中心的な株主である西野嘉右エ門の西野謙四郎・小松島村長湯浅貞太郎がおり、この両者が小松島誘致を推進したと思われる。
「阿波国共同汽船」が初めて投入した船舶は太陽丸(87トン)で、徳島-大阪航路に就航した。「阿波国共同汽船」の当初の設立目的は「藍の適正価格での輸送」にあったが、それが一応の収束をみた後は「阿波国共同鉄道」を起業して徳島県内を吉野川沿いに横切る徳島線の徳島駅と小松島間に鉄道を敷設。徳島の鉄道沿線と大阪・和歌山間を小松島港経由で結ぶ輸送経路の確立に大きく寄与した。なお、共同出資会社の「阿波国共同鉄道」は当時の鉄道行政機関であった鉄道院から敷設仮免許を受けた後、「阿波国共同汽船」に買収されている。「阿波国共同汽船」は、この小松島間鉄道完成前の徳島と小松島の間の小松島航路に第15共同丸(25トン)を就航させ、さらに徳島-小松島間の鉄道線開設後には第28共同丸(1,000トン)を就航させ、大阪 - 小松島 - 徳島ルートの輸送力を確保した。

その後、「阿波国共同汽船」は日本全国に航路を広げ、最盛期には北支航路および西鮮航路にも航路を有する一方、1923年(大正12年)の徳島繁栄組による阿摂航路開設や徳島急行商船による食事サービス競争などで競争は激化した。しかし戦時中には経済活動の統制を受け、他の海運業者と共同出資して関西汽船を設立して航路移管したり、ライバル会社であった「徳島繁栄組」と合併するなどして航路自体が統合整理されることとなった。

太平洋戦争終結後、「阿波国共同汽船」は戦時中に関西汽船へと運行移管していた阿摂航路の返還を要求して受諾される。その結果、大阪-小松島航路は当社あきつ丸(1,038トン)と関西汽船の太平丸(966トン)、おとわ丸(910トン)、山水丸(822トン)との共同運航、そして同航路大阪-徳島航路は当社あき丸(386トン)と関西汽船の金城丸との共同運航となる。

戦後の高度経済成長期には鉄道の電化に伴う高速化や、自動車の一般普及による小口輸送のシェアシフトにより貨客船は利用が低迷、当社は社名を「阿波国共同汽船」から「共同汽船」に改称する。また大阪-徳島航路、小松島航路を貨客船輸送からフェリー輸送に切り替えるなどフェリー輸送へとシフトし、さらに大阪-徳島航路(徳島阪神フェリー)にうらら丸(2,924トン)を、また大阪-小松島航路(小松島フェリー)にあきつ丸(2代目、3,831トン)、びざん丸(4,097トン)を新造投入、さらに共正海運と共同で和歌山深日港-徳島港間にフェリー航路(徳島フェリー)を開設するなど手を尽くしたが、航空機や新幹線などの高速輸送網の発達や大鳴門橋や瀬戸大橋の開通による陸路輸送の効率化に伴う利用率低下に歯止めを掛けられず、大阪-徳島航路を最後に撤退、会社も解散となった。

■小松島港の開発の歴史
①村営事業期:藍商である西野家などの多額の寄付金を財源に行われる。神田瀬川口3000坪を浚渫し、その土砂で官有水面の湊口・横須を埋め立てる。投石による波余波止を南元根井から100間・外開側から50間。和船78艘を用いジョレンを主な道具として行われた。新設埋立地は西野家によって、そのほとんどが購入された。埋め立てによる利益は港周辺が多いとして、小松島浦村10分の7・小松島全村10分の3という格差をつけた。35年4月1日現在の小松島全村戸数2317戸、無財産と認定された1094戸、1戸あたり9厘(総額98円46銭)全体の6.1% これに対し高額納税者は西野嘉右エ門150円32銭(全体の10.3%)2位は宮本谷蔵79円26銭、10円以上の納税する戸数は22戸。浚渫土砂は水田に埋め立てられ川北の外開北開という新市街地の基礎ができた。この新しくできた土地は最大寄付者の西野家の所有になった。明治32年は暴風雨によって勝浦川の堤防が決壊し、金磯の防波堤も破堤するという自然災害に苦しめられた。このためか第2期工事は中止された。

②県営事業期:明治45年3月から阿波国共同汽船会社によって鉄道敷設工事が始まる。
徳島―小松島港間の鉄道ができるのを機に四国の玄関として町が意識され、港を中心としたまちづくりが提唱される。大正元年末 85戸425人が居住していた。大正2年から4年間の継続事業:工費144,600円。干潮海面下約4.5mの繋船岩壁を建設。大正6年~10年 工費199,400円

南北突堤を増築して港口を有効幅員90mに拡張 浚渫によって1000t級の汽船が自由に出入りできるようになる。神田瀬川口を利用した内港は港内面積が小さく、増加する貨物に対応できなくなる。

大正4年1月中田―古庄間に私設阿南鉄道ができる。5年12月に完成。工費は60万円。これにより南小松島駅ができる。大正8年には、阿波国共同汽船会社の待合所ができる。大正9年、若井崎に大阪合同紡績会社の紡績布工場が着工。10年4月竣工。11年6月から一部事業が開始される。精紡機21760機・織機810機。

③国営事業期:大正10年6月に第2種重要港湾に指定される。工事費の国庫補助2分の1。
大正11年7月の港湾調査会を経て大正12年度より昭和5年度に至る8ケ年。予算:3,202,000円。

大正15年 若井崎の大阪紡績に第2工場ができる。精紡機42888錘・織機1308台。第一次世界大戦後の労働運動の活発化により、都会地では従業員の確保と管理が困難となり、地方に工場適地を探していたところ、阪神に海の航路がつながり、水が良く、労働力が確保しやすいため、小松島になった。

大正15年 地引網使用不能化に伴う漁業補償問題が起こる。松坂・港水・高松・今治など他府県の状況を参考に、15,000円の支払いによって、内水面は埋め立てられた。
昭和4年の世界恐慌により、国家予算が緊縮さえる。凹字形船溜掘込を建設中であったが、予算がカットされる。昭和初年度からの不況により、昭和5年11月、大阪合同紡績は東洋紡績に合併され、東洋紡績小松島工場となる。

昭和6年7月。失業救済土木事業として県知事土居通次の決断により、小松島―津田間に産業道路がつくられる。予算総額532,120円(小松島負担39,000・大字小松島寄付3,000・西田嘉右エ門寄付3,000)当時米1石=約20円・現在に換算して1石=6万円で53万円は15億円くらいか?)1石は大人が1年で食べる米の量。

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